イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月20日(月):クリスマス礼拝

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『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらず出来たものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった』(ヨハネ1章1節~4節)

昨日の主日礼拝は、クリスマス礼拝であった。予定通り

秋田キリスト教会の中野渡信義先生が、講壇のご奉仕をして下さった。「主、イエスを信じることによって、人の心の内にある闇が追い出されていくのである」とお話下さった。誰しも心の闇を抱いている、その不安や、葛藤がイエス様を信じることによって、平安な心が得られると。イエス様に全てをお委ねすることによって、神の平安がその人の心を支配するようになるのだと。語ってくださった。信徒さん一人一人が、首を縦に振りながら、アーメン、アーメンとうなづいている様子であった。(感謝)

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お話に夢中になって写真を撮るのを忘れた。先回のものを載せる

礼拝後の交わりが、私たちの教会の特徴である。教会ではお弁当を用意し、また信徒さんがそれぞれに、手作りのケーキやお菓子を持ち寄って、しばし、歓談の時を過ごす。礼拝が終る、さぁ~と潮が引くように人がいなくなる、あるいは、信徒さんがうろうろしているのに、牧師がこれまた、さぁ~といなくなる。そんな教会もあると、漏れ聞いている。礼拝をきちんと守り、さっと帰るのも別に悪いことではないが、どことなく寂しい気がする。昔は、私たちも少し若かった頃は、ずっと信徒さんが最後の一人が帰るまでお付き合いしていたものだった。それで、ちえ子が夕食を出し、それにつられて話が弾み、夜食まで所望されそうになるので、「さぁ、さぁ、お嬢ちゃんたち、夜道は危険だ帰ろうね」と言って、追い出す事になる。それにしても楽しい時であった。・・・

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祝会には、正男じっちゃん、福原兄も来てくれた。迎えの時間の割り振りはむつかしかったが、最初に福原兄の寝込みを襲い、寝ている彼の布団をはがすようにして連れてきた。彼を教会におろし、それから正男じっちゃんの施設に向かった。予定の時間より一時間ほど早く着いたが、身支度をして、玄関のロビーで待っていてくれた。それにっしても、と思わせられる。沢山の案内を出したのに、新しい人が来てくれなかった。今は本当に伝道のむつかしい時代になった。時として心が折れそうになるが、それもまた、一つの心の闇だろう。「うまず、たゆまず、たんたん」と、姿勢を正していきたいものである。そう言えば。下田牧師ご夫妻がいよいよ、六戸の地で開拓伝道を始めることになると言う。六戸の地は私たちも多少の縁がある。そこに、小松ヶ丘教会があって、堀米牧師がおられて、度々お尋ねした。JTJ宣教神学校の第一期生で、その関係で知り合いになった。今は、奥さまを亡くされて仙台の自宅でお暮しのようである。今週の23日に、下田牧師夫妻がこちらに訪ね来られるとのこと、楽しみにしている。

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話は、最初に戻るが。ヨハネのこの言葉は、不思議な言葉である。渡先生も話しておられたが、イエス様とは、ヨハネは従弟同士である。幼い頃からの腕白仲間であった可能性が強いにもかかわらず、その人を「神であった」と証言してる。この証言は新約聖書の中でも最も重要な証言である。イエス様の十字架から70年の歳月を経て、エペソで使徒ヨハネが回想のうちに書き記した。証言が今も私たちに力を与えてくれる。新約聖書は、ヨハネの「主よ、来たりませ・マラナタ」で終わる。使徒はどんなに待ちこがれていたことか・・・・・・