イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月20日(火):受肉との比較において

聖書における歴史と啓示に関する正しい理解は、類似の問題である。受肉の光りに照らして研究する時にのみ、組織化されうるという事を述べておきたい。啓示されたことばとしてのキリストには、二つのもの、即ち、神人、また啓示と歴史があり、この二者の間には、区別もあるけれども、なお一者である。キリストを証しする書き記されたことばについても、これは同様である。ただ人や本を見て、神的なものを否定するのは片手落ちである。しかし、人間的なものを無視して、神と神のことばのみをそこに認めるのも片手落ちである。人間なるイエスが神の子であること(聖書による信仰もかく認める)は、真の逆説(すなわち不合理でないもの)である。同様に、聖書と言う一冊の本が、神の啓示でありえ、事実神の啓示であるということ(聖書による信仰はそれをそういうものと理解する)は、また真の逆説(すなわち、不合理でないもの)である。この二つの面は逆説的関係にあるが、これらは相互に適合し合っており、また適合しなければならないものである。もちろんこの平行性を力説しすぎてはならない。

イエス・キリストは神であり、一人格であり、創造主であるが、それに対し、聖書は、どれほど高く評価しても、被造物、人格を証しするものでしかないからである。しかし、この問題全部を、受肉の事実を指針として、この角度から追及するならば、内容においてだけでなく、その歴史的形においても、聖書の権威と完全性を保証しうる。正統的な、より充実した、真実な理解への道が開かれると思われる。

(聖書注解書:G・W ブロムリィ。有賀寿訳)

やや難解な文章であるが、結論は傍線でしました部分にある