『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれと言っていますか」マタイ16章13節。
あなたはこの問題について書かれたものを、読んだり聞いたりしたことがあると思います。ある一部の人たちは、キリストがこの世に生まれられたことを頭から否定し、彼についてしるされいることは、語り伝えられた神話に過ぎないと言っています。・・・・・・
ある人たちの説によれば、キリストが、かつて地上に生活なさったと言う事実は、常識ある人ならば、誰も疑う余地のないほど、歴史的に十分証拠づけられている。しかし、彼は人の形ををとった神ではなかった。私達と何ら変わることのない一人の人間で、私達と同じようにして生れ、同じように死んだ。彼の遺骨は、エルサレムに近い名もない墓に納まっている。と言うのです。・・・・・・
またある人たちに言わせれば、キリストは偉大なすぐれた宗教家であった。彼は他の何者も経験しえなかった神との関係に立って、誰よりも多く、人類のために尽くした。彼のまぶしいほどの純潔さや、真理を説く不撓不屈の意志や、自ら進んで人のために犠牲になる精神は、彼が、我々の道徳と宗教の指導者だと言うことを実証するものであり、我々は彼に従わねばならない。彼はすべての人間を神に導くであろう。しかしながら彼は神でなかったし、神になろうともしなかった。彼に好意を持つ友人たちが彼を神にしてしまったのだ。と。・・・・・・・
さらに他の人たちは、聖書に記録されていることは真実であり、たとえ、天地が過ぎ去っても、キリストのみことばは永遠に残るものだと言っています。しかし彼らは心からこれを信じているのではなく、またその生活の中にそれを証しようともしない。彼等の日々の生活の中心は、キリストではありません。彼等はただ誓ったり、呪ったりするときだけ、キリストの名をとなえているのです。彼等は酒に酔い、姦淫を犯し、人を欺き盗みもします。・・・・・
・・・・不思議・・・まことに不思議なことです・・・・・・・
キリストに対する人間の考えに、これほど多くの相違を引き起こさせる姿、そのような姿をとって、神の子が、この世に来られたということは。
あなたは、この事実を不思議だと思いませんか。むしろ私たちは、もし、神の子がこの人間の世界にきてくださるならば、彼に対する人間の見方が、みな一致するような方法で人間にあらわれなさるだろうと言う風に考えるかもしれません。・・・・・・・
けれども、キリストは、人間が期待するような姿で来られなかったというところに、私達は、おのれを低くなさるおかたを見ることができるのです。神の子は、人間につまずき与えるような姿をとって、あらわれたまわねばならなかったのです。