イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月3日(土):キリストのために苦しむ者の幸い

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義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのもの『です。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口をあびせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです』マタイ5章10節~12節。

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エスの特筆すべき性格の一つは、透き通た真実である。イエスは彼に従うことを決心した者にどんなことが起るか、曖昧にして置かれなかった。

彼は自分が来たのは、人に安楽な生活を保証するためでなく、偉大な人間をつくるためだと言われた。・・・・

現代の我々が、初代のクリスチャンの苦難を想像することは困難である。彼等は生活のあらゆる面(めん)で困難に遭遇した。

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①・・例えば石工(せっこう職人であった場合、異教の神々の像をつくる注文が来た時、クリスチャンの職人はどのように対応するか。
また、仕立て屋を営む者が、異教の祭司の式服をつくるように依頼されたクリスチャンの職人はそれをつくっていいものだろうか。彼は悩まないだろうか。こうして、クリスチャンの人々は、異教世界にあっては、その信仰を貫くのに多くの困難があった。・・・・・

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②・・クリスチャンであるためには、社会生活の面でも困難があった。

昔も今も日本では、ほとんどの祭りが、異教の神をまつるものである。祭りには宴会がつきものである。異教の祭司が捧げる祈りに、クリスチャンは、アーメンと唱えることができるであろうか。このような状況を考える時、初代のクリスチャンの小さな群れは、まさに、大海の波間に漂う、小舟のようなものであった。

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③・・家庭生活の中でもクリスチャンは困難があった。

家族の中に、クリスチャンとそうでない人がいた場合、家族の間に様々な軋轢が生じるのは明らかである。キリスト教は、そのような家庭に平和ではなく剣(つるぎ)を送って家族を二分(にぶん)することが多かった。

自分の一番親しい人か、キリストを選ばなければならなかったのである。

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④・・ローマ帝国におけるクリスチャンへの迫害

その迫害は熾烈を極めた。このことについては、これまで多くの事例を紹介してきているので、詳細ははぶくが、クリスチャンの受けた刑罰はその恐ろしさにおいて言語に絶するものがあった。ローマの競技場において獅子の餌食にされ、火あぶりにされたりした。このことは既に、「ネロその愚劣な生涯」において書いている。

私達はしばしば、こう考える。なにゆえ、神は、迫害にあって死んでいった殉教者を、助けなかったのかと。神にとっていとも容易いことなのに、何故、「座しておられたのか」と。しかし、年月を経て、二千年たってみると、それは、自分たちが間違っていたことが分かってくる。

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迫害で死んでいった人たちは、後に続く者の歩みを容易にしたのである。

今日、我々が自由に祝福にあずかることができるのは、過去に、自由のために進んで血と汗を流した人たちがいたからである。信仰の先輩たちは、

我々のために道を切り開いてくれたのである。我々もまた堅く立って、キリストのあかしを立てることにより、後に続く者のために道を整えなければならない。

信仰のために苦しむ時こそ、キリストを最も近くに感じる時である。というクリスチャンの体験を持つ者は幸いである

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