イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月7日(木):デマスの霊的巡礼

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パウロの手紙で、デマスについて3回語られている。この三つの言及は、悲劇的な物語と言えるだろう。

Ⅰ・・ピレモンの手紙の24節で、デマスは、パウロがあげた彼の同労者と呼ぶ一グループの中に入っている。

Ⅱ・・コロサイの手紙4章14節では、ただ名前だけあげられていて、デマスについて何の言葉もない。

Ⅲ・・この箇所でのデマスは、この世を愛したがゆえに、パウロを捨てたデマスである。最初のデマスは、同労者デマス。第二が、名前だけのデマス、第三は、この世を愛した逃亡者デマスである。ここに霊的退化の歴史が書かれている。少しずつ、同労者は逃亡者に変わって行った。デマスはいったい、どうなったのだろう。はっきりは言えないが推量は出来る。

多分、デマスは、はじめは何も失うことなくキリストに従い始めたのであろう。デマスは、いわば精神的に熟したときに、キリストのもとに来た人々の一人であったのであろう。しかし、クリスチャンであることについて、十分な思慮がなされず、また何を犠牲にするかも考えていなかったのであろう。

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デマスはまんざら非難されるべきではないと思われる。ある種の福音伝道の中には「キリストを受けよ。そうすれば、休息と平和と喜びがあなたのものになる」と述べているものもある。ある意味では最も深い意味では、大いに、また幸いにも真実である。しかしながら同時に、我々がキリストを受け入れると、苦難がはじまるのも真理である。クリスチャンになるまでは、この世と、またその規準とに同調して生きてきた。この生活は容易であるから、人間は、最も抵抗の少ない生き方をしたがるものである。俗衆に従っていくものである。ところが一度キリストを受け入れると、その人は、全く新しい生活規準を受け入れねばならなくなる。彼は全く新しい生活態度で、仕事、人間関係、その他の歓楽、その行為、その言葉、自分で行う一つ一つの行動において、新しくならねばならない。そこで、当然、衝突が生じる。デマスは教会に一時の感情にさそわれて、十分考え抜かないでとびこんで来た。そして、不人気、迫害、犠牲的行為の要請、孤独、投獄等が起った時に、自分がいままでに、そのようなことを予期していなかったので、デマスは教会を去った。人がキリストの従おうとする時に、一番大切なことは、自分が何をしているのかを熟知することである。・・・・・・

デマスには、積年の避けがたい疲れが来ていたのであろう。年月が我々の理想を奪い去り、次第に、小さいものに満足し、目標を段々低くし、敗北してもあまり気にならなくさせる

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サザランドは医者になった頃は「どこかに医者はおりませんか」と町で呼びかける声を聞いた時、身体がぞくぞくするような誇りを感じたものだったが、年月を経るに従って「医者がいませんか」と呼びかけられても、さっぱり「気乗り」しないようになってしまった。・・・・・

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パウロはデマスについてこう言った。「彼は、この世を愛した」と。デマスの直面した困難は全く単純なものだった。それでいて、きわめて恐ろしいものであった。彼はキリストを愛する以上に、この世の楽しみを愛した。すなわち、彼はまず十字架に、ついで星に(天国)に導かれる道よりも、より容易な道を愛したのであろう。彼はクリスチャンの生き方である、運動選手が持つようなヒロイズム(英雄的行為)よりも、気迫のない繁栄をむしろ好んだのであろう。・・・・・・

我々は、デマスを批判するのではなく、同情をもって彼のことを考えよう。我々の多くは彼とまったく同じようなものなのであるから。

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