『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのでないことを悟るのです』
・・・・・・・・へブル人への手紙11章1節~3節・・・・・・・・
信仰とは、信じているものが真実であり、期待しているものが必ず来ると確信することである。 希望とは単なる憧れをもって待ち望むことではなく、確信をもって待機することである。 希望とは、ある可能性に期待をかけるのではなく、ゆるがぬ確信に堅く立つことである。 ・・・・・・
昔、迫害の時代に、裁判官の前に引き出された名もない一信者がこう言った「私が神に対して真実であるならば、神は私にとって真実であられます。だから私はどんなことがあっても信仰を捨てません」。 裁判官が「お前のような者でも神のもとへ行って栄光を受けられると思っているのか」
と尋ねると、この信徒は「私はただそう思っているのではありません。事実そうであることを知っています」と答えた。 ・・・・・・
バンヤンが確信が持てずにもだえ苦しんでいる間は「人は誰でも、自分の信仰が一番正しいと考えている。ユダヤ人も、ムーア人も異教徒もそう思っている。 もし私の信仰が、ただ『そう思っている』程度のものであるとすれば・・・」と疑っていた。 しかし、真理を悟った時に彼は叫んだ。
いまは「今こそ私は事実を知った。 今、私は、直接それを知っている」。クリスチャンの希望は単なる希望ではなく望みでもはなく、確かさを知ることなのである。 この希望は、我々の全ての行為、行動を支配する。 生きるにも死ぬにも、この希望が我々を支える。 ある人が次のような歌詞を書いた。
希望の杖に身を託し、
忍耐の衣をまといつつ
わたしは旅を続ける
この世の悲しみの中を
永遠を目指して進む
クリスチャンはこの世のならわしに従って、安楽と繁栄をを楽しむことができる場合であっても、神に従って、苦痛、苦労、孤独を味わうことがあるかも知れない。 またこの世の繁栄を捨てなければならない場合もあるだろう。 しかし、クリスチャンは、神と共に受ける苦しみはこの世の繁栄に優ると信じている。 ・・・・・・
クリスチャンの希望は感覚よりもむしろ霊を信じる。 感覚は、「欲しいものを取りなさい。手に触れ、舌で味わい、楽しむことができるものを取りなさい」と。 命じる。 感覚は現在のあるものをつかみとるとるように命じるが、霊ははるか彼方にあるものを指し示す。 クリスチャンは感覚よりも霊を信じる。 ・・・・・・・・・
クリスチャンは現在よりも未来を信じる。 現在楽しいことでもやがて苦しみに変わるものは善いものということはできない。 反対に、現在耐えられぬ苦しいことであっても、将来喜びをもたらすものは善いものである。 ・
キリストはピラトによって死においやられたが、やがてその後の歴史はその結末を転倒させている。 「昔、ネロはパウロを処刑したが、今日人々は息子たちをにパウロという名をつけ、犬にネロとという名をつける」。
名古屋キングスガーデンの理事長竹内先生からお便りがあった。
深瀬先生から電話があった。 「来て欲しいようだったと」
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