イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月5日(土):信仰の反省 ジェーコブズ博士


『あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し自分を吟味するがよい。それともイエス・キリストがあなた方のうちにおられることを悟らないのか。もし覚らなければ、あなたがたはにせものとして見捨てられる』(Ⅱコリント13章5節。)

このような自己吟味は、罪と律法に対する自分の態度を反省し、福音に対する同意と信頼を吟味し、信仰の実があるかどうかに考えることによってなされるのである。では、このように自己吟味した結果、自分の霊的貧困さのみに気づき、信仰が隠れている場合、もし、義に対するうえかわきと、恵みと信仰への望みがあるならば、それ自体が信仰である。たとえ、信仰が弱く、疑いが信仰を悩ましてもそうである。

『たとい私たちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである』(Ⅰヨハネ3:20)

『わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである』(Ⅱテモテ2章13節)

このように義に対するそのものが聖霊の臨在の証拠である。

毎日の信仰生活、または聖餐にあずかる場合、このような自己吟味において警戒すべきことは、信仰そのものと、その内容の代わりに、信仰の確信を重視する危険性である。人が義とされるのは、自分の信仰によるのではなく、仲保者キリストのいさおにより惠みのうちに与えられた神の約束に対する信仰によるのである。自分の信仰を「土台として」「そのゆえに」そのゆえに義とされるのでないことをいつも覚え、「キリストのゆえに信仰により」義とされることを知らなければならない。・・・・・・

信仰の確信に疑いが生じた時、ルターは次のような素晴らしい忠告を与えている。『この点について良く理解するためには、次のことを考えるがよい。すなわち、私の心の中には、信仰とか愛と呼ばれるものは何一つなく、ただキリストご自身がそこにおいて、『ここにわたしの義がある』と言い聞かせることである。

最高の信仰とはキリストを見上げて、信仰そのものを忘れてしまった状態である。荒野において蛇に噛まれたイスラエルの子らは、銅の蛇を見上げることによって、いやされた。彼らの注意は、見上げる行為に向けられず、見上げる対象そのものに向けられた。

自己吟味は大切であるが、ルターはその濫用を戒めているように、自分だけを見つめる病的な習慣から離れて、自分の外に自分を超越して得存在するキリストのあがないのいさおの中にある義に至る道を求めるようにしなければならない。

キリスト教教義学】