イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月16日(水):神の国への新生

「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』」(ヨハネ3:3)

福音書によれば、イエスの宣教の主題は神の国でありました。イエス神の国を「父の国」「わたしの国」「御国」「国}などと言っておられますが、それらはすべて神の国と同じものです。そのような神の国が来たりつつあることと、それに入るにはどうしたらよいかを説くことを、イエスはご自分の使命とされました。・・・・

 ところが、この神の国ほど普通の人にとってわかりにくいものはありません。それはどのような国であるのか、この世の内にあるのか外にあるのか、すでに存在しているのか、やがて実現するのか、肝心な点がはっきりしません。そこで神の国というものは、現実離れした一種の空想であると思っている人が多いののです。しかし、それは神の国の現実性(リアリテイ)が未信者には隠され、信者に飲み現わされているという特別な理由によるのでありまして、神の知恵にかなっていることであります。・・・・

 神の国とは簡単に言えば、イエスの宣教によってこの世にもたらされ、世の終わりに完成する霊的王国のことであります。霊的王国ですから、世の国々のように、目で見ることはできません。それには神のほか人間の主権者や地理的な領土ではありません。従って生まれつきのままの人間には、神の国は隠されています。未信者はそんな国が存在している事さえ知りません。それを知り得るのは、新しく生まれた者だけです。「イエスは答えて言われた。『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』」(ヨハネ3:3)。新しく生まれた者、即ち、イエスを信じて魂の目を開かれた者だけが、神の国の現実性を知ることができます。すなわち、今から二千年前に始まり、それ以来、たえず前進をつづけ、今尚完成に向かって進んでいる、不思議な国がこの世に存在していることを知るのであります。・・・・

 しかし、これだけの説明ではまだ不十分ですので、その国の特徴を二三あげますならば、神の国はまず神の栄光をあらわすことを目的としている国です。イエスは、「主の祈り」の初めに「み名が崇められますように」と祈るべきことをお教えになりました。パウロも「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(Ⅰコリント10:31)と勧めています。世間ではすべてのことが、自分の利益や社会福祉のためというよう、何らかの功利的な目的のためになされます。どんな立派な行為でも、結局、実利や打算を動機としています。そのような世界に、イエスはいっさいの世俗的目的を越えた正しい目標をお立てになりました。それが「神の栄光のために」です。そこまでいかなければ、人間の行為は純粋であるとは言えません。そこまで行くことによって、人間の生活はそのまま神への礼拝となります。実利と打算とに満ちた世界に、イエスはそのような崇高な動機をもたらされました。神の国は神の栄光をあらわすことを目的とする国であります。・・・・・

 次に神の国は心の貧しい者をその民とする国です。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ5:3)。「財産の有る者が神の国に入るのは、なんとむずかしいことであろう」(マルコ10:23)。

神の国は神をあがめ、神に栄光を帰する国ですから、神以外の自我を崇めたり、没しつを頼んだりする人は、その民となることはできません。つまり、心の富んでいる人や持ち物を誇りとする人は、神の国から締め出されます。イエスの時代パリサイ人や律法学者たちが神の国へ入れず、帰って取税人や罪人などが入ったのは、そのためです。世には自分が正しいと思っている人が満ち溢れています。刑務所には自分の罪を知っている人が多いだろうと思われますが、事実は反対で、自分がこんなことになったのは、だれ、誰のためだとか社会のためだとかと言って、罪を他のものに転嫁し、自分は良い子になっている人が多いそうです。ある人が刑務所を訪問して、「刑務所というところは悪人のおるところかと思ったら、善人ばかりおるところであった」と言ったという話を聞いたことがあります。まして普通の人はいつも自分は正しいと考え、自分に罪があるなどと思っても見た事もありません。このように自分を正当化し絶対化する心の富んだ人の多い世界に、イエスは自分の罪や弱さを知る、心の貧しい人をその民とする国をつくられたのであります。・・・・

 第三に神の国は愛し合う事を唯一の法律とする国です。イエスは弟子たちに、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いにあ愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とお命じになりました。世の国ぐにには多くの法律があります。日本の法律も「六法全書」に載せきれないくらい無数にあります。しかし、神の国には「互いに愛し合いなさい」という戒めのほか、法律はありません。人々のあらゆる行為は、愛の立場から判断され、評価されます。どんな偉大な人物でも、愛がなければ、小さいし、どんな平凡な人でも、愛があるなら偉大です。その点で、アレクサンドロスやナポレオンは、神の国では小さいですが、フランチェスコマザー・テレサは、神の国では偉大です。「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8)と言われるように、神は愛の本源ですから、人を愛することによって神に近づき、愛さないと神から遠ざかります。しかるに世の人々は、愛より利益を求め、愛より快楽を好み、愛よりも観念を尊びます。しかし愛を離れた利益や快楽がむなしいことは勿論、愛のない観念も一種の偶像にすぎません。イエスは、この利己的、享楽的、観念的な世界に、愛を至上とする国を建設されたのであります。

(1972年10月15日:由木 康師 説教集抄訳)