イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月18日(金):父の愛の物語 (ルカ15章11節32節)

これは世界で最も偉大な短編と言われてきたが、それは理由のないことではない。ユダヤ人の法律によれば、父は財産を勝手に分配することができなかった。長男は3分の2をうけ、次男は三分の1を受けるように決められていた(申命記22:17)。父親が実際の運営から退きたいと願う時には、生前その資産を分割することも決して異例のことではなかった。しかし、しかし、この次男の要求には何かしら薄情な冷酷さがある。彼は実際こう言ったのである。「あなたが死んだときにいただけるわたしの分け前を、今分けてください。そしてここからわたしを出て行かせてください」。・・・・・

 父は議論しなかった。彼は息子が必ずひどい目にあうであろうことを知っていた。それでも彼は息子の要求を満たしてやった。息子は自分の分け前を手に入れると、即刻、家を離れた。金を湯水のように使った彼は、ついには豚を飼う身となった。その仕事はユダヤ人には禁じられていたものだった。律法には、「豚を飼う者は呪われる」とあったからである。・・・・・・

 ここでイエスは、罪の人類に最大の賛辞を呈している。「彼は本心に立ち返って・・・」と。イエスは言った。人間が神から離れ、神に逆らっている間は本当の自己からも離れており、立ち返るときに初めて、人間の本当の自己を見いだす、それがイエスの信念だった。イエスが人間の完全な堕落を信じていなかったことは疑い得ない。人間を下郎呼ばわりして神を称えることがおできになるとは決して信じていなかった。むしろ彼は、人間が神のもとにたちかえるまで真の自分自身ではないと確信してやまなかった。・・・・・

 こうして息子は、家に帰ろう、そして、息子としてではなく、一番低い身分の日雇い奴隷にしてくれるように懇願しようと決心した。普通の奴隷は家族の一員だったが、雇われ奴隷は1日の契約であとは解雇される身分だった。むろん家族の一員とされることもなかった。彼は、こうして家に戻った。ギリシャ語のテキストによれば、父親は、奴隷にしてくれと頼むいとまを与えなかった。着物は栄誉を表し、指輪は権威を表している。誰かに印形を彫った指輪を与えれば、それはとりもなおさず、その人に委任権を与えたも同然だったからである。はきものは、奴隷ではなく子であることを表している。家族の一員たる子供ははきものを履いているが、奴隷は履いていなかったからである。奴隷の夢は、黒人霊歌にあるように、「神の子がみな靴を履ける」時がくることだった。けだし、靴は自由のしるしだったからである。それから、さすらい人の帰還を喜ぶために祝宴が始まった・・・・

 筋を追うのは、これくらいにして、この譬え話にひそんでいる真理をさらに深く見ていくことにしよう。

①・・この譬えは《放蕩息子の話》と呼ばれてきたが、しかし、これは《慈悲深い父の話》と呼ばれるべきものである。なぜなら、主役は、息子ではなく父の愛について多く語られているからである。

②・・この譬えは、罪の赦しを多く教えている。父親は息子の帰郷を一日千秋の思いで待っていたに違いない。まだ遠く離れていたのに、それを息子と認めたのもそのためである。父は非難めいたことを一切言わずに、息子を赦してやった。赦しには偏愛という形の赦しもあるし、もっとひどいのには、誰かをゆるしたとしても、ちょっとした言葉の端や、脅し文句などで、その人が罪に対して未だ責任があることをほのめかすような、そういう赦し方もある。かつて、リンカーンは、南部の反乱軍が負けて結局はアメリカ合衆国に帰属することになった時、そのそれらの人たちをどうするか問詰められた。その質問者は、リンカーンが徹底して報復策を打ち出すものと期待していた。ところが彼は「わたしはあの人たちを、われわれから去らなかった人ものとして扱うつもりです」と答えた。神も我々をそのように取り扱われる。それは神の不思議とでも言う他ない。・・・・・・

 だがそれで話が終るわけではない。そこへ長兄が入って来る。この人は弟が帰って来たことを残念がったのである。この長兄は自己義認的パリサイ人を表している。彼らは罪人が救われるも滅びる方がよいと考えていた。この長兄について次の諸点が顕著である。

1・・父に長年仕えてきたのは、義務からであって愛からではない。彼の態度全体からそれがにじみ出ている。

2・・彼の態度には同情が全く欠けている。自分の弟のことを、わたしの弟と言わずにあなたの子と言っている。彼は自分の正しさばかりを主張する人間である。どん底にあえぐ者をさらに深みへと蹴落として平気でいられる人間である。

3・・彼はことに陰険な精神の持ち主であった。彼が言い出すまで、遊女のことはふれられていない。疑いもなく、彼は弟に嫌疑をかけてその罪を責めながら、そのくせ自分はそれをやってみたくてうずうずしていたのである。・・・・

 ここに驚くべき真理がある。すなわち、多くの人に告白するよりも神に告白する方がやさしいということである。言いかえれば、神の裁きは多くの正統的な人間のそれよりもはるかに広大であるということである。たとえ、人間が赦すことを拒否するときにも、神は赦すことができるからである。そのような愛のうちに置かれるとき、われわれは愛と賛美の中に自己を投げ出す他はない。・・・・・・

(W・バークレー