イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月19日(土):サヴォナローラ

フローレンスの預言者サヴォナローラ宗教改革を語る者は、この偉大なる先駆者として、ジロラモ・サヴオナローラを忘れることはできない。

彼は1452年イタリアのフェラに生まれ、祖父の業を継ぐために医学を勉強中にストロツイの娘ラオダミアを恋してその父に拒否され、失意のうちに23歳でボロニアのドミニコ修道院に入った。そこで、アウグスチヌス、トマス・アクイナス、聖書を熱心に研究した。後、フローレンスの聖マルコ修道院に移り、説教者となり院長となった。・・・・

彼は愛国心に富み、道義心が強く、敬虔な人物で、いわばルネッサンスの嵐の中で教会と社会の粛清を説き、メジチ家の専横を非難し、教皇の堕落を弾劾した。彼の口から出る言葉は、群がる群衆を魅了した。フローレンス・アカデミーの学長フイチオ、詩人ミランドラ、碩学ポリチアノをはじめ多くの人文学舎が信仰に入った。ミケランジェロやボテチエリルも強い感化を受けた。・・・・・

フローレンスは悔い改めないなら神は外敵を用いて罰するだろう、と予言し、彼の預言は1494年フランス王シャルル8世の侵攻となって成就し、再度王にあって攻撃を中止せしめたので期せず彼はフローレンスの指導者となった。彼は共和的神政政治を実施し、宗教的、道義的覚醒を促す新法律を制定した。失業者は職を与えられ、課税は軽減され、裁判は公平、子供はジロラモ団を作り、大人は厳命「虚飾品を焼却」し、こぞってミサに列し、信仰は復興した。しかし、この間に彼の厳格な粛清について行けぬ一部の市民、ミジチ家の復興を企てる政敵、悪名高きボルジャ家の教皇アレキサンデル6世、フランシスコ会の者たちは、彼の失墜を狙っていた。・・・・・・・

彼らはサブォナローラを嘲笑し、脅迫し、暗殺団をひそませた。教皇枢機卿の帽子を餌にして、拒絶されると審問のためにローマ出頭を求め、成功しなかったので説教の中止を命じ、ついには波紋を宣告した。《代理者が神から離れると、もはや、神の器ではない、鉄くずだ》と彼は反駆した。教皇はフローレンス市に脅迫状を送って、「サヴォナローラを、処刑せよ、たとえ彼が第二のバプテスマのヨハネであろうとも」と厳命した。市会はフランシスコ派の提案した「火の判決法」を機に彼を逮捕し、3日間の拷問の後、死刑を宣告した。

1498年5月23日、彼は僧衣を剥奪され、「汝を戦闘の教会と勝利の教会より追放する」と宣告されると、「勝利の教会からは離せない。それは汝の権限ではない」と答えた。

裸足でシニョリーナの広場に引き出され、絞首刑の後、焚殺され、灰はアルノ河に投げ捨てられた。

中性のイタリアは、聖者フランシス、神学者アクイナス、詩人を生んだ。サブォナローラは正義の説教者として彼らに勝るとも劣らぬ大偉人であった。(彼の死後婦人たちは刑場に多年に和あり花をささげた。ミランドラは彼をイエスに比した。)ラファエルは聖者の中に彼を描いた。今、処刑された場所には記念碑が建ち、「僧衣から射出せる流星、これぞ彼、サヴォナローラ」とブラウニングの詩の1句が記されている。その近くににはドミニクの僧衣をまとい、左手を獅子の頭に、右手に高く十字架を掲げ、目を天に向けている彼の像が立っている。・・・・・

彼はカトリックの郷里の一つも否定しなかった。それにもかかわらず、」プロテスタントの史家は皆彼を宗教改革の先駆者と見ている。彼は教皇の腐敗を攻撃し、総会(註:教会?)を教皇に勝るとし、神の恩寵を力説して「我らの救いはは我らの価値や業によらず、ただ、恩寵による。何人も誇ることのないためだ」と言い。改革のバプテスマのヨハネの役を果たしたからである。ルターはサヴォナローラの死の直前に書いた「瞑想」について、「敬虔な福音的な作品である。彼はここに誓いを立て、僧衣をまとい、僧院規則を守り、ミサに善き業を信じているドミニク僧としてではなく、義の胸当て、信仰の盾、救いの冑で身をかためた平信徒として瞑想にふけっている。彼の神学はまだ泥がついているが、この書は己が業に失望し神の恵によって救われた者の美しいあかしである」と称えている。