イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月5日(水):寛容令

f:id:dotadotayocchan:20201017112037p:plain

コンスタンチヌスは数か月後、ミラノで東方の皇帝リキニュウスと共に、キリスト教寛容令を発布した。(313年)。彼はまたニコメディアの宮殿にいたマキシミニスにも、その自殺直前に、この法令に同意をさせた。この寛容令は311年のものに比べると、積極的に友好的で、すべての人民に完全な宗教的自由を与え、没収、または略奪したものは教会に返却させて、キリスト教をローマの合法的宗教と認める道を備えた。・・・

f:id:dotadotayocchan:20201016154934j:plain

歴史家エウセビウスはこの日の有様を、次のように書き記している。

『クリスチャン達は大いに喜び、この記念すべき日を祝った。すべてのものが光に満たされ、悲しみに沈んでいた者は喜びに顔をほころばせ、たがいに挨拶をした。そしていずれの町、いずれの村でも、声張り上げて、世界の王である神をほめたたえ、ついで信仰深い皇帝をたたえた。』(教会史10:9)

これは「すべての人が、国家の強制や干渉をなくして、自ら良心と正直な確信に従って、自分の宗教を選ぶ権利を有する」という大原則の史上最初の宣言であった。・・

f:id:dotadotayocchan:20200930153723j:plain

リキニウスはコンスタンチヌスと争い、東方ではキリスト教迫害を再開したが、323年9月にコンスタンチヌスは彼を破って、ローマ全帝国ただ一人の皇帝となった。・・・・

そして彼自らキリスト教会の保護者をもって任じ、あるいは宮廷で説教会を行い、あるいは、エウゼビウスなどの教会指導者を宮廷に招いて優遇した。教会統一をはかり、国費をもってニカヤに大会議を招集した。

決議は総会議長に委ね、自らはその決議の実行に当たった。

f:id:dotadotayocchan:20200921101733j:plain

1・・教会法に国家の公認を与えた。

2・・国民の日曜日の厳守、教会財産の管理、租税免除、キリスト教のための法律を定めた。また自ら奴隷を解放し、多額の金を教会に寄付した。

3・・信仰の自由を確保し、他宗教を排撃することはしなかったが、迷信や不道徳な

行事などは禁じた。

4・・十字架、闘剣、離婚、畜妾、罪人の焼却、などを禁じた。

5・・美しい聖書50部を作製させ、コンスタンチノーブル教会に寄贈した。

6・・信仰深いヘレナの意志を汲み、エルサレムベツレヘムなどの聖域はじめ、ローマ、コンスタンチノーブル、ニコメデア、その他の地に立派な教会堂を建築した。

彼は、337年65歳の時、死に先立って、病床で洗礼を受けた。帝王の衣をぬいで洗礼を受け、その後白衣を身に着けて、ペンテコステの日に逝去し、遺体はコンスタンチノーブルに葬られた。彼は史上最初のキリスト者皇帝であった。彼によって300年にわたる迫害の時代は終わった。そして新しい時代が始まった。・・・・・

彼の後継者は、「背教者ユリアヌス」として知られているが、その在位期間はわずか3年で、陣中において没した。彼の最後の言葉として『ガリラヤ人よ。汝は勝てり』と記録されている。

f:id:dotadotayocchan:20200912142950j:plain