イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月3日(月):コンスタンチヌス大帝

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306年には、すでにゴール、スペイン、ブリテンの皇帝になっていた若いコンスタンスチヌスは、はるか西方からキリスト教迫害停止に賛意を表していた。彼は西方の副帝コンスタンチヌス・クロルスと、熱心なクリスチャンであったヘレナとの間に生まれ、(274年)、二十歳の頃まで母親のもとにいたが、人質としてディオクレチアヌス帝のもとに送られ、その頃皇帝となっていた腹黒いガレリウスが、自分に危害を加えようと軍隊陰謀を企てているのを知って、単身父のいるブリテンに逃亡し、数か月後、父の死にあい、その軍隊によって皇帝に推挙されたのであった。

312年十月27日、ローマ近郊のミルヴィス橋の決戦で、マクセンチウスの大軍を敗走せしめ、コンスタンチヌスは直ちにローマへ入って正帝の位についたのである。

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十字架のしるし

歴史家エウゼビウスはコンスタンチヌス帝の友人であって、当時の出来事を皇帝自身から直接聞いたところを、その伝記に書き記している。それによると・・・・

コンスタンチヌスは圧倒的に優勢な皇帝マクセンチウスの兵力を前にローマの近郊に布陣して、この期に臨んで熱心に神の助けを祈り求めていた。すると、正午を少し過ぎた頃、太陽の上に光の十字架が現れた、その上に、『Hoc Signo Vinces』(このしるしによって勝て)という文字が見えた。これは皇帝ばかりでなく、全軍の兵士が見たという。

コンスタンチヌスはその夜、この出来事の意味を考えながら眠りについたが、夢にキリストが現れて、昼間見た十字架を示した。これを旗印にして戦えと言われた。そして彼は、キリストを信じる決意を堅め、翌日は十字架の記をつけた軍旗を造り、キリストの名をもって戦場に臨み、大勝利を収めたという。

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この事件は単なる自然現象に過ぎないという者もあり、また、単なるフィクション、あるいはコンスタンス個人の主観的な夢物語に過ぎないと評する者もあり、また、実際の奇跡という者もあるが、エウゼビウスだけでなく、他の異教の学者までもその著書に、記録を残していることを考えると、事実無根のフィクションではなく、何か、十字架と関係のある異常事件があったと考えてよいであろう。

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