イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月16日(木):十字架のかたち

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『もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。』(申命記:21章23節)

『そこでピラトは、そのとき、イエス、を十字架につけるために彼らに引き渡した。彼らはイエスを受け取った。そして、イエスは御自分の十字架を負って、「どくろの地」という場所(へブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。』(ヨハネ19:16~17)

先日、アーサー・ホーランドの刺青の件でもの申したが、今一つ、申し上げねばならないことがある。よく街中を十字架をかついで、いわゆる、「十字架行進」をしている写真を見かけるが。よく見ると、縦棒の端にキャスターをつけて引いて行進しているのである。アーサー師は屈強な男である、多分180センチくらいの身長があるだろう。そんな人でも十字架を引きづって歩くには、キャスターをつけなければならないくらいだから、さんざんローマの兵士にいためつけられ、むち打たれたイエス様が、そのような十字架を担いきれるはずがないのである。「それでも、聖書には『十字架を負って』と書いてあるではないか」という疑問については、後年ギリシャ語から翻訳される段階で「十字架」と訳されたものであろう。W・バークレーもこのことについて書いている。主は、十字架の横木を担わされて、ピラト官邸を出たのだと。それは当時のローマのしきたりでもあったと。

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上の挿絵にはエルサレムから、刑場へ向かう一行が描かれている。そこには明らかに、横木を負って歩むイエス様の姿が描かれている。もとより、これはドン・ボスコ社というカトリック系の出版社の出した本の中にあるものだが、これを見るとすでに刑場には既に縦の杭が用意されていることがわかる。従って、十字架行進は明らかにフィクションであるという事ができる。・・・・・

とどのつまり、そう言うことであるが、しかし、十字架と言う言葉としるしは我々にとって重要であることには変わりはない。ただあくまでもシンボリックなものであり、主のかかられた十字架を仰ぎ見て、その贖い死と、救いのみわざを、思い起こすようにと、神が与えられた確かなしるしとして「十字架がある」。そう言う意味においてアーサー師の行進は一つの役割を果たしているのだと思える。(アーサー・ホーランド師もかなり御高齢だと思われるが、ご健在であるか確認していない。つまらぬことで難癖付けて申し訳なく思うが、しつこいようだがやはり、イエス様が担ったのは、横木である)

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