イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月31日(土):十字架上の七言 (4)

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『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』(マルコの福音書15章34節)(マタイの福音書27章46節)

これは十字架上の苦しみが絶頂に達したとき、叫ばれた言葉です。

この句は詩篇22章1節そのままであることから、一部の学者たちは、これをイエスが日ごろ愛誦しておられた詩篇をこの時口ずさまれたのであると申します。この詩は「わが神、わが神」という悲痛な叫びから始まっていますが、ついにはメシアの勝利をもって終わっています。イエスも同様に苦難から勝利への道を思いつつ、この詩を口ずさまれたのであろうというのです。しかし、そのような解釈は、イエスの死を合理化し、十字架のつまずきを取り去ろうとするもので、決して正しい解釈とは言えません。これは詩篇の一句であるにせよ、あくまでイエスの心から発したものであるとみるべきであり、そうあってこそ、十字架は独自な意味をおびてくるのであります。・・・・

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マタイとマルコが十字架上の言葉として、これだけを記しているのを見ても、この言葉の重要性は明らかです。このことばさえあれば、他の言葉は失われても、十字架は人類の救いとなるでありましょう。この言葉が聞えたとき、黒雲が空をおおって地上が暗くなったと申します。それは、この時イエスの苦しみがどんなに深かったかを印象的に示したものです。イエスはかつて、「これはわたしの愛する子である」という父なる神のみ声を一度ならずお聞きになりました。しかるに今や「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれるのです。父なる神と一つであったイエスが、神と自分との間をさかれたのです。これは何故でしょうか。イエスご自身に何らかの罪があったのでしょうか。いな、人類の罪が彼の上にのしかかったのです。神に背いた人類がの罪が、黒雲のように、イエスと父なる神との間を隔てたのです。愛は二つのものを一つに結びつけますが、罪は一つのものを二つに引きはなします。人間の罪は、父なる神とその一人子とを引き離し、イエスをして父なる神を見失わしめるほど深刻な事実なのです。しかし、イエスが人類の罪を自分の身に引き受けられたことによって、人類の罪のゆるしとあがないとはなしとげられました。私たちの救いが保証されるために、この言葉は必要であったのです。(以上、由木 康師説教集より抜粋)

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このお言葉の意味は深くてむつかしい。幸い、イエスの生涯について書かれた本を8冊ほど持っているので、この箇所の解説、解釈の部分を拾い読みしてみたが、概ね由木師の解説の沿ったものであった。

私は、このイエスの言葉を読むときに、決まってヨブの苦難を思い出す。もとより、イエス様の苦難とヨブの苦難を同列に扱うことはできないが、形として類似しているものがある。それは、ヨブ自身が自分の潔白を信じて疑わなかった言葉「わたしを贖う方は生きておられる」(19:20)。この確信が、どんなに責められてもヨブは失わなかった。イエスも同様に、神への信頼は失うことはなかった。ではなぜ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのか。多くの解説者は、人類の救いのために必要なお言葉だったと、書いている。

その通りだろうと私も思う。

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しかし、私にはもう一つの意味を含んでいる。これは私にとって「慰め」の言葉として聞こえてくる。・・・

人生長く生きていると、山あり谷ありである。しかし、谷底にいる時、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた時、この言葉が響いてくる。「あぁ、八方ふさがりの時、四面楚歌を感じた時、イエス様もこう叫ばれたのだな」と思う時、言いようのない、慰めをこの言葉から受けるのである。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、言葉の意味と裏腹に私に勇気を与えてくれるのである。

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