イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月8日(火):終わりの日の危険 異端

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エスは、その最後の前に、異端者や真理を曲げる者たちが起るだろうということを、知っておられた。教会に異端者が現れたのは間もなくであった。異端は五つの主な理由によって起こった。

1・・異端は自分自身の都合のよい教義を作ることから起こった。人間の心は希望的観測について無限の可能性をもっている。有名な詩の中に「愚か者は心の内に、神はいないと言う」とある。詩人が言う愚か者とは、彼に知識がないというのではない。彼はただ、愚か者を演じているのである。神がいないというのは、そこに神がいてほしくなかったからである。もし、そこに神がいれば、それは彼にとって都合が悪かった。それ故、その教義と宇宙から神を除いてしまった。・・・・・・・

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2・・異端は真理の一部を強調しすぎることによっておこる。たとえば、神の一つの属性を強調しすぎることはいつも間違っている。もし我々が

神の神聖だけを考えるなら、神との親密さを得ることは決してできない。神は世界から全く遠く、また、離れているという自然神教になる傾向がある。もし、我々が神の正義のみを考えるなら、神の恐怖から自由であることは決してありえない。宗教に悩まされることになり、宗教によって助けられることはない。もし我々がただ神の愛を考えるなら、宗教は安易な感傷的なものになってしまう。新約聖書の中には、ルカ15章以上のものがたくさんある。キリスト教の中には常に矛盾がある。神は愛である。しかし、神は正義である。人は自由である。しかしなお、神が支配しておられる。人はときの制限のなかの被造物であるが、しかし、また永遠の被造物である。ある人は「正統主義は、両側に大きな割れ目が開いている刃物のような山を背を歩いているようなものである」と言った。一歩でも右か左によりすぎると悲劇が起きる。我々はギリシャ人が言うように、人生を落ち着いて見、また、全体を見なければならない・・・・・・

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3・・異端は人々に適した宗教に人気が集まり、魅力ある宗教を作り出そうとすることから起こってくる。そうすると、宗教は水増しされなければならない。刺激、非難、屈辱、道徳的要求はそれから取り除かなければならない。人々に適合するようにキリスト教を変えることが我々の仕事ではなく、人々をキリスト教に適合するように変えることが仕事である・・・

4・・異端はクリスチャンの交わりから自分自身を離れさせることから起こってくる。人が一人で考えるときには、迷った考えに陥る大きな危険がある。教会の伝統というものがある。教会を真理の守護とするような考えがある。自分の考えが人々の交わりから自分を離れさせているのを知ったなら、それは、その人の考えが何か間違いがあるという場合である。人が、教会を母と考えない限り、神を父とすることはできないというのがローマカトリック教会の考えである。そこに真理がある。

5・・異端は、完全に理解しようとする企てから起こってくる。ここに大きな矛盾がある。我々には自分の信仰を理解するようにつとめなければならのが本務である。しかし、我々は限定された被造物であり、神は無限であるために、決して完全に理解できないというのもまた真理である。その理由の故に、一連の叙述の中に手際よく述べ得る信仰、また幾何学上の法則のように一連の論理的段階に手際よく証明される信仰は、その見地からすると不可能なことであり、矛盾である。我々は最大の知性をもって覚えていなければならないことは、その前においては、ただ礼拝し、驚き、賛美するしかない究極的神秘の場があるということである。

『わたしが理解できるようなものなら

どうしてわたしは賛美出来るのか』

テルトゥリアヌスが言ったように、「それが不可能なゆえに、わたしは

信じる」・・・・・

      ☆                    ☆                          ☆

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これらのことは、必ずしもキリスト教ということに限定せず、いわゆる宗教全般について考えてみると、いっそう明確になって来るように思われる。

1・・の項目については、聖書なり経典を自分の都合のよい解釈をする。

2・・の項目については、全体を見ることを怠りやす人に見られる。

3・・の項目については、人の機嫌を取ることに重点が置かれる。

4・・の項目については、これが一番危険なのだが、孤立感を深める。

5・・の項目については、何もかも知ろうと不可能なことを始める。

何日か前に、友人からメールが来た。うちの父は「折れそうで折れない柳のようだと、母が常々言っていました」と。北杜夫という作家が、昔、仙台で講演したことがあった、「たおやかな峰」?だったかな。人間生きる上でたおやかで、しなやかな生き方が一番いいようなことを語っていたが、どこをどう間違えたのか、私の場合は、「のらり・くらり」というようになってしまった。

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今日は何時ものおねーちゃんはお休み。代わりにお花を・・・・

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