神に至る道は一つ以上の道がある。テニソンが言ったように「神はご自身を多くの方法で成就される」。セルバンテス(ドン・キホーテの作者)はかつて言った。「神は彼の民を天国に運ぶのに多くの路を持ち給う」と。結局、世界はまるいのであって、二人の人は、全く反対の方向に出発して、全く同じ目的地に到達することが出来る。・・・・・・
ローマ帝国には、ローマの大広場の中央に黄金の里程標があった。あらゆる地方を通じて、距離はその里程標を起点として計られた。「すべての道はローマに通じる」と言うのは真実である。そして、また、すべての道は、もしわれわれが長い時間をかけて、遠くまで十分な追跡をするならば、神に至ることもまた真実である。ある人、またある教会が、救いを独占していると考えることは怖ろしい事である。・・・・・・・
常に覚えていなければならないことは、真理は一人の人が把握出来ることより常に大きいということである。誰もすべての真理を把握することはできない。何事もいい加減に受け入れることが寛容の基盤ではない。どこにも確かなものは存在しないというものでもない。寛容の基盤は、ただ真理の世界の大きさを理解するに過ぎない。真理はさまざまの家に住み、多彩な衣服をまとい、種々の聞きなれない言葉で語るのを認めることを意味する。・・・非寛容は尊大と無知の双方のしるしである。それは、その人が自分で見ている真理を超えて、真理が存在しないと信じているしるしである。(W・バークレーの著書より)
このコロナ騒動の中で、教会も自衛策の為にインターネット礼拝とかをしているようである。こういう状況ではやむを得ない事でもあろう。しかし、これが常態化していくのではないかと、ある種の怖れを感じる。人は常に易きに流されやすい、「あぁ、これは便利だ。らくちんだ」と考え始める人が出て来なければいいのだが・・・教会とは、召された者たちの集まりであり、そこでは常に「主は、よみがえられた」と証しする場、仲間の集いである。教会はキリストのからだである・・・・