イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月18日(土):傷は残るのです

『みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。自分の肉に蒔く者は、肉から刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう、あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会のあるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう』(ガラテヤ6:6~10)・・・・・

この箇所でのパウロは、あくまでも実際的である。キリスト教の教会には教師たちがいた。当時、教会は正真正銘の共有制度をとっていた。キリスト者は誰でも、他の人が乏しすぎる一方で、別の人が多く持ちすぎることに耐えられなかったのは事実であった。そこでパウロは述べている。「もし誰かが、あなたがたに永遠の真理を教えているならば、あなたがなし得る最小限のことは、あなたが所有している物質的なものを、彼と分かち合うことである」・・・・・・

次にパウロは妥協する余地のない真理を述べている。パウロは最後の時、人生は正確で精密な均衡を保つ計りにかけられる、と主張している。もし、誰でも自己の本性の低い方の側に身を寄せるとすれば、彼は結局、災難以外のものを刈り取るという期待をもつことは出来ない。しかし、誰でも絶えず高い道を歩き続けるならば、時間は長くかかるかも知れないが、ついには神が報いて下さることになる。キリスト教が人生の脅迫を取り去ったわけではない。ギリシャ人はネメシス(ギリシャ神話で応報天罰の女神)を信じ、人が間違ったことをするとすぐ、ネメシスに追跡されて、遅かれ早かれ捕らえられてしまう、と信じた。あらゆるギリシャ悲劇は、「行為者は苦しむであろう」と言う言葉の則った説法である。

 ・・・われわれは以下の以下の事柄に十分心に留めていない・・・・

神は人類の罪を赦すことができるし、赦されているけれども、神でさえ罪の結果を消し去ることはできないという厳然たる事実である。誰でも自分の体に罪を犯すなら、たとい、赦されても、早晩、健康を害するという報いを受けるであろう。禁酒同盟のすぐれた講演者である、ジョン・B・ゴフはその前半生を向こう見ずに生きた人であるが、「傷痕は残るものである」という警告をいつも明言していた。さらにすぐれたオリゲネスは、「全人類は救われるであろうが、その時でさえ、罪の傷痕は残っているであろう」と信じた。私たちは、神のゆるしを利用することはできないということを覚えておかなければならない。全世界には一つの道徳律があり、誰かがそれを破ってもゆるされるであろう。しかし、それにもかかわらず、その人は破った責任を負わなければならないのである。・・・・・

このようにして、パウロは慈悲と寛容との義務や課題が、時々、なおざりにされたり、飽きられたりするかも知れないが、その務めは続いているのであり、また、誰でも報いを求めずに人に尽くす人は、必ず報いを受ける、と言うことを友人たちに喚起しているのである。