・・・愛はいつまでも絶えることがありません・・・
パウロはこの章の3節で、「もしあいがなければ、いっさいはは無益である」と宣言している。人々の言葉、み使いたちの言葉を語っても、預言ができ、あらゆる奥義、知識に通じていても、自分の全財産を人に施しても、殉教しても、もし愛がなければ、それは騒音であり、無に等しく、無益だと言うのである。つまり、人間がどんなに努力精進し、人間による最高のことをなしても、愛がなければすべてだめだと言うのである。・・・
では「愛」とは、どんなものであろうか。否、この「愛」とは神の愛なのである。神の愛がなければすべてだめだと言うのである。神の愛がなければ、一切がむえきだというのである。この愛が人間にだせるものなら、この13章の愛の賛歌はひとつの倫理に終わってしまう。それは一般受けはしても、聖書の示すものでなくなってしまう。・・・・・・・
「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」(ガラテヤ;6)割礼があるとかないとかではなく、尊いのは、キリストの愛によって働く信仰である。ここで働くのは、キリストの愛であって、私たちの愛ではない。私たちは、人間の理想の愛とはこういうものだと誤解しやすい。ここに述べられている愛の記述は、私たちに神の愛なのである。そして、信仰、希望、愛、の中で最大のものは、神の間と宣言されるのである。・・・・
4節語られる愛の姿は、「キリスト」という語に置き換える時、さらに明確にとなる。「キリストは寛容であり」。もしキリストが寛容でなかったら、私たちはとっくにっ種の幹から断ち切られていたに違いない。また、「キリストは情け深い」。私たちの弱さを本当に知って下さるかたなのである。7節を「神の愛は」と、始めると、神の御性質がよくわかってくる。「神の愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。私自身の今までの生涯を思うとき、私のしてきたことに徹底的に忍耐された神、何度も何度も罪を犯し、「今度こそ心を入れ替えますから」悔い改めを繰り返す者を信じて下さった神、何の価値もない私に、いや、大丈夫だ、この者は何かできるのだと、なおも望みをかけて下さる神を思わずにはいられない。・・・・・・・・
コリントの教会にも、様々な賜物を持つ人がいた。そこで自分の能力を誇る彼らに、最も優れた道を示そうと、パウロはこの愛を説いた。私たちの何ができるかということより、何を与えられているかを説いたのである。自分が何ができるかを考え誇っている間は、まだキリストの愛に本当に打たれていないのである。私たちにとって、神が与えてくださった最も大きいものは愛である。こんなつまらない者をも、キリストの十字架で赦し、召し、清め、用いて下さった。この事の故に喜ぶ。それだけで十分なのである。(榎本保朗一日一章)
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今日から盛岡でアシュラムの集会がある。4日は出席する予定でいたのだが、如何せん、このご時世である。ここは隠忍自重するしかない。恵先生や、みんなに会いたいのは山々なれど、欠席することにした。落ち着いたら琵琶湖のほとりを訪ねたいとの願いは、変わらない。・・・・・
榎本師の一日一章を載せたが、なにやら釈然としない、最もこれは恵み先生が、編集したもので、元本は持っているが、今日は読み比べる気力がない。