イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月4日(火):悟りの時

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御国への鍵

人が物事を理解するには二つの時がある。幼児が哲学を理解できないように、誰でもその年齢にふさわしくなるまで、理解できないことがある。一般社会に生活して行きながら、徐々に物事が見えてきて、それに慣れていくのである。成長するにしたがって、視野も知識も増してくる。丁度、山上りのように、麓にいる時は、見える範囲は限られているが、登山道を登るにつれて、次第に麓の村全体や、川の流れ、点在する集落まで見えてくる。さらに登り続けると、山脈が青く映り、その向こうに、海の水平線まで見えて来ることがある。山頂は、360度のパノラマが開けている。変なもので、その山頂より標高の高い山でも、眼下に見下ろす様に見えて来る。これは人の成長と捕らえ方が同じである。・・・・・・・

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もう一つは、人生におけるいろいろな出来事を、どのように捉え、感じていくかということである。人にはそれぞれに、ドラマがある誰かが言っていた、「人は誰でも一編の私小説を書けると。」そのドラマは他人には他愛のないことであっても、本人にはかけがえのないものである。誰でも自分の人生は波乱万丈なのである。他からみればありきたりに思える人の中にも「波乱万丈」が潜んでいるのである。・・・・・・・・

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私たちはこの二つのことを心に留めておきたい。頂上にはイエスがいることを。様々な出来事の中に必ずイエスが介在しているということを。

私のブログ名はイミタチオ・クリステイである。キリストにならいてということであるが、私はいつも、ちえ子に言っている。物事を判断し、行うとき、「イエス様ならどうするか」そのことを考えて行動しなさい。と。

至難のことには違いない。誰も出来得ることではない。しかし、目標はあくまでそのことである。祈りはそのためにある。心の中で幼子のように泣きべそをかきながら、主よ、主よ、とみ足の後をたどる者でありたい。

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それにしてもなんと遅い足取りであろう