イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月12日(金):神の恵み その価

f:id:dotadotayocchan:20200918192435j:plain


『神の恵みは、地上のものを味わう人には与えられないこと』

イミタチオ・クリステイ。第3巻53章

Ⅰ・・(キリスト)わたしの恵みは価が貴く、世俗の事物や地上の種々な恵みと、混同するのをゆるさない。それゆえ、もしもお前が神の恵みをそそいでもらいたく思うなら、それを妨げるすべてを捨てねばならない。自身のために人気のない所を求め、ひとりだけで住むのを愛し、誰とも話し合わないようにつとめなさい。それよりも、改悛した心性と清らかな良心を保つために、神に敬虔な祈りを熱心にささげなさい。全世界を下らぬものと評価して、神への奉仕を他のどのような外部のことより、重んじなさい。

なぜならば、お前は私に仕えながら、同時にかりそめの過ぎ去る事物に興じることはできないからだ。知り合いや愛する人たちから遠く離れて、自分の心をあらゆるこの世の慰めから引き離しておかなねばならない。(マタイ19:29)かようにして、聖なる使徒ペテロはキリストの信者たちに、まるで他国の人や、旅人でもあるかのようにこの世ではふるまうことをすすめたのである』(Ⅰペテロ2;11)

【愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい】

f:id:dotadotayocchan:20200416093751j:plain
Ⅱ・・ああ、もし人がどんなものへの愛着によっても、この世につなぎとめられていないならば、死に臨んで、どれほど大きな安心を得られようか。だが、このようにすべてを捨てた孤独な心を持つことは、心の弱い人にしてはなかなかできない。動物的人間は、内的な人の自由を理解しない。だが、もし人が本当に精神的人間になりたいと思うならば、遠いところに住む人も近くにある知人も見捨てて、誰よりもまず自分自身に警戒せねばならない。もしもお前が自分自身にうち勝てるなら、他の者たちをもっと容易に征服できよう。完全な勝利とは、自分自身に打ち勝ことである。なぜなら自分自身をいつも服従させておき、こうして感覚を理性に従わせ、万事に理性を私に従わせる者こそ、真に自己を克服した者、この世の主人なのである。

f:id:dotadotayocchan:20200521132118j:plain
Ⅲ・・もしもお前がこの頂上まで登りたいと切望するなら、最初から男らしくしなければならない。そして、自分自身と、すべての自分だけにかかわる物質的な幸福をのぞむ、ひそかな常軌こえた(烈しい)欲望をもぎ取って打ち砕くため、その根に斧をあてねばならない。人間が自身をやたらに常軌をこえて愛おしむという悪徳から、ほとんどすべての悪が生じてくるので、それで何としても根本的に克服せねばならないものだ。この悪さえ完全に克服され、抑制されたら、大きな平和と静穏がすぐに至ろう。さりながら、自分自身を完全に殺そうとつとめ、自分を越えた境地に向かおうとする者は、わずかであるため、たいていの人はいつも自身にかかずらって、その結果、自分を乗り越え精神的高みにのぼることはできない。だが、私といっしょに自由に歩みたいと志す者は、自分の邪悪な常軌をこえた愛情を屈服させ、どんな被造物に対しても、私な愛情をもって、情欲により執着することがあってはならない。

f:id:dotadotayocchan:20200915154228j:plain

      ★         ★          ★

イミタチオ・クリステイ(キリストにならいて)は、500年ほど前に、一修道士によって書かれた書物である。トマス・ア・ケンピスによって書かれたとされているが、異論はある、しかし、誰によって書かれたかということよりも、「何が書かれているか、そのことより、何が言われているのか、と言うことが重要なのだとこの著者は語っている。この「名もなき」修道士の著わしたものが聖書に次いで多く読まれているいることは驚きであるが、日本においてはキリシタンの時代にすでに翻訳されているが、現代ではあまり知られているとは言えない。何事も「権威」が尊重される時代になったのかも知れないが、この埃っぽい一冊が、自分の座右にあることは、ささやかな誇りである。その道は果てしなく遠いけれど・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200810131947p:plain