『ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々はもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません、彼らは、自分でもう一度十字架に架けて、恥辱を与える人たちだからです』へブル書6章1~6
教会の中には、成長しない者がいる。いつも堂々巡りをして、基本的な教義を唱えてそれさえ信じていればいいような気持でいる。いわゆる「使徒信条」をまる暗記して唱えるのが信仰だと思っているらしい。
『それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建てあげるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちはもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹きまわされたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためです。(エペソ書4章12節~15節)。
作家のアンドレ・ジイドは、50年、聖書を読んでいても、今なお新たにみことばの深さを気づかされることがあると、書いていたのを読んだことがある。「神の言葉」とはそういうものなのだろうなと思う。ささやかながら自分にもそんな記憶がある。その一つ一つのみことばへの深い理解は、人を成長させるものかもしれない。