イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月26日(水):聖霊を賜ること

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現代のキリスト者と、さきにの時代のキリスト者とは、いろいろな面において違っております。今日のキリスト者は、聞き、語り、読み、また書きます。そして才能があり、かつ勤勉でもあります。しかし、現代のキリスト者聖霊にみたされていると、断言しうる人が、私たちの間に、はたして何人いるでしょうか。・・・・・・

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目に見えない世界というものは、私たちが、それについて読んだり、聞いたり、学んだりしているにもかかわらず、私たちからは遠く離れているものであって、現実のものではありません。ですから私たちを感激させたり、魅惑したり、私たちの興味を呼び起こしたりすること比較的に少ないのです。これは、私が耳にするキリスト者同士会話から、推察したことであります。・・・・・

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とはいうものの、私は決してキリスト者の間に交わされる、つまらない会話だけを考えているのではありません。キリスト教が現代に掲げているテーマのことをおもに考えているのです。私たち働きのことを熱情と感激をもって語り合います。しかしこの会話は、隠れた生命のことに移ると、途端に、会話は下火になってしまうのです。心に満ちているものが、静かに熱のある言葉となってほとばしり出るほど、それほど豊かな神にある生活をしている人に会うことのなんと少ないことでしょう。・・・・

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今日私たちは、聖霊と共歩いて肉の欲に打ち勝つということはあまり問題にしません。強情や、勢力に対する激しい欲望や、名誉へのあこがれや、そねみ、中傷はキリスト者の間で打ち破られていないのみか、罪として認められていない場合さえ多いのです。神は、神に従う者にだけ聖霊を与えてくださいます。その人は罪のない人ではありませんが、自分たちの罪を認め、そして罪に勝とうとする意志を持つ人たちです。

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私はこの目で見る

信仰の木がこの国にもはえているのを

けれども、ああ、それは

なんと弱々しい木だろう

そして、なんとまばらなことよ。

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O・ハレスビー著。みことばの糧。より。