イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月30日(日):従順 パスカル

『あまりにも従順だという理由で、人々を責めなければならない場合も、まれではない。それは、不信仰と同様に、自然な悪徳であり、しかも有害である。 迷信。

【254】

『あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私はあなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしいと望んでいます』(ロマ16章19節)

従順という言葉が、パウロの手紙の中に、特にロマ書等には少なくとも十数か所用いられている。従順であることは、キリスト者の特性であることには間違いないのである。

 さて、パスカルの「あまりにも従順だという理由で・・・・というくだりはどう理解したらよいのだろうと考えてみた。以前この断章を取りあげてある箇所があるが、もう一度本文と照らし合わせてみると、この断章の最後に、一語付け加えられていた。それは、【迷信】という言葉であった。パスカルはこの断章の中で、迷信を信じている人への批判としてこれを書き、それが悪徳であると言っているのか。とも解釈できるが、どうも合点がいかない。そもそも、「迷信」を信じている者たちへの関心はパスカルにはなかったであろう。卑近な例をあげれば、迷信を信じてる無学な田舎のおばぁちゃんを、わざわざ、取りあげる必要などパスカルには感じなかったであろうということである。普通の人が普通に信じている信仰のあり方の中の「迷信的」部分を指摘しているのだろうと思われる。

 信仰には従順は欠かせないが、あらゆることに従順を優先させ、「理性」の入り込む余地のない、「従順な信仰」を、パスカルは批判しているのだろうと思われる。聖書の解釈においても、歴史的検証や、時代背景、など総合的に理解していかなければならない部分を、その聖書の言葉を、その部分だけを、取りあげてそれを主のみことばだ、と信じ込む人たちがいる。一番怖いのは、「みことばに力がある」と信じ込んでいる者たちである。多分、「聖書注解書」のところでも書いたと思うが、聖書自体、書かれたのは人間の手によってである。「すべて、聖書は霊感による」(Ⅱテモテ3:16)とあるが、原本はとうに失われている。荒野に降ったマナ、モーセに渡された神御自らの十戒、神の箱、・・・・すべて今は現存しない。何故それらが保存されなかったのか。それが今の時代に存在したならば、人々は、ほぼ間違いなく、それらの物を崇め奉るようになるからである。人の信仰は、往々にして、見える物、五感で感じられる頼る。「みことば」特に赦しのみことば、私たちを安心させ、ホットさせる。しかし、みことば自身が赦すのではなく、そのように語ったと言われる神ご自身の赦しである。ここに認識の乖離があれば、それは、迷信になり得る。

 よく「御言葉信仰」という言葉が使われるが、非常にややこしい表現である、「みことばを信じ、みことば通りにしていれば・・・・」という意味合いの言葉と理解するが、それも度が過ぎると、おかしなことになる。私たちにとって、みことばとは、あくまでも神を示す矢印のようなものと理解した方がよさそうである。

 断っておくが、みことばに力がない訳ではない。しかし、それはあくまでも、神のみこころと、みことばと、自分自身が、一直線に繋がったときに、みことば聖霊と共に働かれるのであろう。