イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月13日(金):不信の祈り

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『わたしを助けるものもないままに、捨ておかないでください』

・・・・・・・・・(詩篇141篇8節)・・・・・・・・

ここでは仇に対する祈り、敵に対する祈りがなされている。2節の「私の祈りを、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください」には、その祈りが神によみせられ、聞き入れられることを願う詩人の気持ちが強く込められている。・・

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しかし、この詩人は8節では、「わたしを助けるものもないままに捨ておかないでください」と神に訴えている。これは言わば不信の祈りだと思う。なぜなら、神が愛の神であるなら、捨ておかないでくださいとは言えるはずがないからである。

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新約聖書にも同じような訴えがある。それは主イエスの弟子たちがガリラヤ湖で嵐にあい舟が沈みそうになった時で、

「主よ助けてください、私たちが死んでもかまわないのですか」と弟子たちは訴え、イエスから「信仰のうすい者よ、なぜ疑ったのか」と言われている。弟子たちはその不信をたしなめられたのである。しかし、本当に神を信頼していく者の祈り、それは不信の祈りだと思う。・・・・

たとえば、奇跡を信じる時、それは神だからできたという思いで受け取るのは、信仰深いようであるが信仰の行為ではないと思う。なぜならそこには自分というものが一つもかかわっていないからである。ところが、ひとたび聖書の言葉に自分のいっさいを委ねて行かねばならない羽目になると、なかなか、聖書の言葉は信じられなくなるのである。たとえば、「天に宝を積みなさい」という言葉がある。果たしてためらわず積める人があるだろうか。積めない。本当に積めない、銀行に預けるように、天に宝を預けることはとてもできない。献金したり、ささげたりすることが捨てるように思われてくる。献金のこと喜捨と言った人があるが、本当に捨て金のように思えてくる。なんとかやろうと思えば思うほど、天国なんかあるのだろうかという疑いまで起こってくる。だから信仰ということは、どこまでもそれは不信と連れ添っているものだと思う。陰のようなものだと思う。一生懸命信じて行けばいくほど、不信が濃くなっていく。それが私たちの具体的な信仰の姿ではないだろうか。そこで祈りというものが生まれてくる。だから祈りというのは不信の姿ではないだろうか。聖書のみ言葉を、本当に神が今、私に語りかけてくださる言葉として、それに本気で聴き従っていこうとするときに、それに徹しようとすればするほど、そこに起こってくる疑い、その疑いとの激しい戦いの中からの神への訴え、迫り、それが祈りなのだと思う。だからこの祈りは、不信と言われようが神に叱られようが、そう言わずにはいられない、どうか言わせてくださいという、そういうものであり、そこに真の祈りの姿勢がある。(榎本保朗師一日一章)より。

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久しぶりに榎本保朗師の、一日一章を読んだ。ずっとこの書に育まれてきたといっても過言でないくらい、親しんできていた。それからW・バークレーに移ったがやはり基本はこの書だと思う。単純(いい意味での)率直な師の教えは、最も大切だと思う。師がなくなったのは52歳。私は20年以上長く生きている。アラをさがせばいくらかはあるが、信仰について、祈りについて、師の説教にはアーメンと言わざるを得ない。・・・・

昔、「祈りは心の叫び」と言ったら、首をかしげる信徒が多かった。祈りは、何か神におねだりすることだと思っているようなことと思っている人が多い。しかし、不信の祈りこそ私の祈りでありたい。

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