イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月19日(日):うめくような

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主イエスが葡萄園の話をされたことがある。ある人が葡萄園にいちじくの木を植えて三年間実がなるかと待っていたけれども、実は見つからなかった。そこで園丁に「こんな実のならない木は切ってしまえ」と言ったときに、園丁が「ご主人様、今年もそのままにして置いてください。その周りを掘って肥料をやって見ますから。もしそれでだめでしたら、切り倒してください」(ルカ:13;6~9)と言ったいう、あの園丁のうめくようなとりなしの祈りというものが神の前にささげられているがゆえに、今私たちがあるのである。ところが私たちはこのゆえに、不信仰のままでも結構やっていけるのではないかとという気持ちに陥りやすい。しかし、私たちは十字架の贖いが打ち立てられているということを忘れてはならない。今日も私たちは、主の十字架の故に今あるを得ているのである。今あるのは、神の恵みによるのであることをよくよく覚えて生きていきたいものである。(榎本保朗師 旧約一日一章 イザヤ書5章:4節) 後半。

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【イエスはこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこでぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじく実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか』

番人は答えて言った。「ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥しをやってみますから。もしそれでも来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」】

・・・・・・・・ルカの福音書13章6節~9節・・・・・・・・・・

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何日か前に、榎本師の本をパラりとめくったのがこの箇所であった。後半を読んでいてふと気がついた。園丁(番人)の言葉の中に、『うめくような』という言葉は聖書の中に記されていないのである。ところが、師はこの園丁の主人に対する訴えを、「うめくような、執り成しの祈りと表現している」。この聖書の読み込みは、榎本師の信仰がよく表されているように思われる。私たちの足りなさや、未熟さを、主イエスはあの園丁のように「うめくような」思いをもって神にとりなしておられるのであろう。

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