イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月1日(土):婚宴の譬え話

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・・・・マタイの福音書22章1節~14節・・・・

『招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです』

14節まで記されている王の婚宴の譬え話は、元来二つあったものを一つにしたものであろうと言われている。前半の8節までは、その当時のユダヤ人に対する警告として言われている。せっかく神がイエス・キリストを遣わされたのに、人類の中で最初に招待を受け、愛されているユダヤじいんが、それを受け入れようとせず、ただ自分のことだけ考え、畑に行ったり商売に行ったりしていることに対して、神の怒りがどんなに大きいかイエスは語られたのである。・・・・・・・・

王がこのところで「食事の用意が出来ました」と言ったが、これは王なる神が手ずから食事の用意をしたということである。また、「牛も肥えた獣も」とあるが、この牛は王自ら大事に育てた牛であり、本当に自分の最善のものをもって婚宴を催したものであるから、どうぞ来てくださいというものである。・・・・・・・・・・

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私たちはこれを客観的に読むと、それほどまでされたら招待は受けねばならぬと思う。しかし私たちは神が食事をととのえられた集会に対して、何を犠牲にしても出席しているだろうか。人と会う約束があるとか、法事があるとか言って、神が備えたもうた饗宴としての集会に出席しないことが多いのではないか。そういう点は、昔も今も少しも変わらない。・・・・

この譬えはユダヤ人だけに言われている事ではない。私たち自身に言われていることである。招かれた人たちも、王が私たちのためにこれほどまでして下さったことに対しては非常に感謝していたと思う。しかし、その一方で、彼らは、畑を耕すとか、商売をするとかという地上の生活があるから、心ならずも行けなかった。だからもし招かれたら、自分を捨てなければ、招待にこたえていくことは出来ない。この人たちは、自分を捨てることが出来なかったのである。・・・・・・・・

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エスは「あなたがたは、私の名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」(10:22)と言われた。私たちは神から憎まれるより人から憎まれたり、悪口を言われたり、村八分にされることを恐れる。しかし、私たちはそれを捨てなければ、神からの招待を受けることは出来ないところに信仰のむつかしい点があるのだ。「命に至る道は狭い」とイエスは言われたが、捨てるべきものを捨てなければ、天国に入ることが出来ないという厳しさをこの譬えは教えている。・・・榎本保朗師一日一章・・・

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朝のウオーキングもどうやら三日坊主にならず、続けられている。警察犬訓練士の人も相変わらず毎日来ている。クビンがこの3月に亡くなって、こころもち元気がないように見える。無理もない、まさに手塩にかけて育てて来た「子」である。私にも経験がある。今いるマルの母親を自分の不注意で死なせてしまった。深瀬牧師が、名古屋の碧南市から秋田へ連れてきた猫が死んだとき、「肉親を失った時より辛い」と言って悲しんだ。丁度前後して父親が亡くなった前後でもあったが、愛猫の死の方がこたえたと言っていた。これらのことには確かな理由がある。人の終わりは神の定めることであり、それを私たちは、如何ともしがたい。これは事実である。しかし、動物のいのちはある意味で私たちに委ねられている。私たちが飼い犬や飼い猫をしっかり見守っていれば、死なせずに済むことが多い。深瀬牧師は、温暖な地方から秋田へ連れて来た。秋田の寒さに耐えきれず猫は死んだと思い込んだのである。・・・・・・

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私の場合もそうだった。6月田圃には、ネズミとりの農薬が仕掛けられる。田圃を犬が走り回る、「危険だ、もう今日かぎりにしようと」思っていたその日に、母親は、田圃の毒をくわえてしまった。翌日、血へどを吐いて死んだ。すっかり毒は吐き出してしまったが、遅かった。私の膝に顔を載せて静かに息を引き取った。私の不注意が招いた結果であった。人のいのちはどうにもならないけれど、私たちが注意をすれば救える。その注意を怠った自責の思いが悲しさを増す。

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