イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月30日(金):越えられぬ障害

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『まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物を捧げなさい』(マタイの福音書5章23~24節)。

エスのこの言葉は、ユダヤ人たちが当然知っているべきこと、また、忘れてはならないことを思い出させることだった。なぜ犠牲を捧げるのか、その理由は極めて明解である。人が悪いことをしたら、それによって、その人と神との関係は損なわれる。そこで、犠牲をささげて、その関係を正常に戻そうとするのである。・・・・・・・・

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ここに二つの大切なことを忘れてはならない。第一に、犠牲は故意に犯した罪、ユダヤ人が「悪意ある罪」と称する罪を贖うことは出来なかった、ということである。人が知らないで犯した罪、瞬間、自制力を失い激情にながされて犯した罪に対しては、犠牲は効力があった。しかし、故意に正義を無視し、あるいは悪に無感覚になって、罪と知りながら罪を犯す場合には、犠牲はそれを贖うことが出来なかったのである。・・・・・・

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第二に、犠牲に効力を持たすためには、犠牲を捧げるとき、罪を告白し、真実に悔い改めなければならなかった。真実に悔い改めるとは、罪の結果を償う努力をすることである。ユダヤ人には贖いの日の犠牲すらも、隣人と和解しない人には効力がなかった。人と神との和解が成立する前に、人と人との不和が解消されなければならなかった。もし、人が、窃盗の罪を償うために罪祭を捧げたとしても、その捧げものは、盗んだものを返すまでは効力がなかった。もしその盗品が返還されていないことが分かったならば、その犠牲は、汚れたものとして神殿の外で焼き捨てられた。神との正しい関係に入る前に、最善を尽くして自分を正さなければならない。

このようなことはユダヤ人はよく知っていた。・・・・・・

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人と和解するまでは神と和解することはできない。神に罪を告白するばかりでなく、人に対しても罪を告白し、その罪の結果を取り除くために最善を尽くすまでは、神のゆるしを願うことは出来ない。イエスはこのことを明らかにされた。我々は時々、何故自分の祈りが聞かれないのか。と不思議に思う、それは、兄弟と対立しあるいは誰かを傷つけたまま償いをしていないために、神との間に壁が出来てしまっているのではあるまいか。

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