イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月23日(土):異邦人の律法

『神にはえこひいきなどないからです。律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて律法によってさばかれます。それは律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。律法をもたない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いを、律法をを持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また弁明し合っています」(ロマ書2章11~15節)

この箇所ではパウロは、異邦人に向かって語っている、彼はユダヤ人の誤った考え、すなわち彼らの特権と特別の恩恵について語って来た。ユダヤ人は確かに一つの利点を持っている、それは律法である。これに対して異邦人は次のように主張して仕返しするのももっともなことである。「神は律法を所有し、それをよく知っておくべきユダヤ人を責めるべきであって、われわれ異邦人は律法を知る機会がなかったし、よく知ってもいないので、裁きから確かに免れるであろう」この主張に応えてパウロは、二つの大原則を提示する。

(1)・・知り得た機会に応じて人は裁きを受ける。律法を知っているならば、律法を知っている者として裁かれ、律法を知らないならば、知らない者として裁かれる。神は公平である。なお、イエスがこの世に到来される以前に生存していた人とキリストの使信を聞く機会がなかった人に対して、どのような裁きが下されるかの問い対する答えもここにある。キリストの答えは、人の知り得る最高の可能性に対して、彼が忠実であったか、否かによってさばかれるという。もし彼が知り得た最高の事柄に対して忠実であるななら、神はそれ以上求めることはできないし、また、なさらないでのである。

(2)・・パウロは続いて、成分律法を知らない者でさえも、彼らの心の中には成分化されない律法を持っていると主張する。われわれはそれを善悪を知る本能的知識と呼んでいる。ストア哲学者は、宇宙にある法則、すなわち健康の法則、道徳法、生命と生活を支配する法則・・・が働いているが、人は危険を冒してまでそれを犯そうとする、と、説く。ストア哲学者はこれらの法則を、・・・自然の意・・・とよんだ。彼らは、人間が即ち、自然に従って生きるように勧告する。人間の性質そのものには、人のなすべきことに関わる生まれながらに固有の、本能的知識が植え付けられている、と言うのがパウロの論旨である。ギリシャ人はそれに同意したことであろう。アリストテレスは「教養と自主性の有る者は、自分自身を律法とし自分の思う通りに振る舞う」と語った。ブルタルコスは、「誰が支配者を治めるのか」との問いに対して、次のように答えている。「それは律法である。ピンタロスが称しているようにそれは、全ての死すべきもの、不死のものの王である。それはパピルスの巻物や木版に記されているものではなく、魂の中にある彼自身の理性である。それは永久に彼と共にあり、彼を守り、彼の魂を決して指導者の不在のままにしておかないものである」。パウロは世界に二種類の人々に分類されるとみた。一つは神から直接律法を与えられ、しかもすべての人が読めるように記述された律法をもっているユダヤ人と、他はこの成分律法を所有しないが、それでも心の中に神から植え付けられたああ正邪に関する本能的知識を持っている異邦人である。いずれも神の裁きから免れると主張することはできない。ユダヤ人は神の計画の中で特別の位置を占めているので、免除されるとは主張できない。ユダヤ人は律法を知っている者として裁かれ、異邦人は成分律法を持たずとも、神の与えられた良心を持つ者として裁かれる。神は、人を知り、かつ知る機会を得た事にしたがって人を裁かれる。