イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月2日(金):悔い改めの説教

キリストの洗礼

『それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています、だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

・・・・・ルカの福音書3章7~9節)・・・・・

ここには民衆に対するヨハネの使信がある。ヨハネとイエスの間の相違はそれほどはっきりしたものでない。というのも、ヨハネの使信がどのようなものであったにしろ、それは福音ではなかったからである。それはよきおとずれではなかった。それは恐怖のおとずれであった。ヨハネは砂漠に住んでいた、砂漠の表面は、株やかんぼくに覆われ、ほくち(火口)のように乾いていた。時々、閃光が砂漠の表面を燃やし、裂け目からまむしや蛇が出て来て差し迫る炎におじまどうこともある。ヨハネは、バプテスマを受けようと集まって来た人々を、そのまむしにたとえたのである。ユダヤ人たちは、神の摂理の書に、自分たちが最愛の民として記されていることを少しも疑わなかった。彼らの主張によれば、神は一定の基準で諸国民を裁くが、ユダヤ人には別の規準があるという。実際彼らはただそれだけの理由で神の裁きから逃れられるとさえ主張したのである。アブラハムの子は裁きを免れた。ヨハネは、そのような民族的な特権はナンセンスであると主張した。曲がった生は神の裁きに価するのだ、と。仕えヨハネの使信には次の三つのことが際立っている。

①・・まず、彼は所有物を分け合うように要求した。それは一種の社会的福音で、少ししか持たない者がいるのに、富んでいるいることに満足していられるような人間は神を神はゆるさないであろう、というのである。・・・・

②・・自分の任務を離れず、なすべき仕事をなすことによって自分自身の救いを達成せよ、人々に命じた。取税人はよい取税人にならなければならない。兵士は良い兵士にならなければならない。だれでも、神が自分を置いた場所で神に仕えねばならない。日毎の働きにおいてこそ、人間は最もよく仕えることができる。これがヨハネの確信だった。

③・・ヨハネは、自分は単に先駆者にすぎない、と信じて疑わなかった。自分のほかに王が来られ、彼は裁きをもたらすであろう。箕というのは平な板でできた大きなシャベルで、それを用いて空中に放りあげると。重い実は地面に落ちるが実の入らないものやもみ殻は風邪に吹き去られてしまう。丁度、王は善い者と悪しきものとをより分けるであろう。このような表象を借りてヨハネは裁きをリアルに描き出した。しかし、この世の裁きを確信を持って迎えることの出来る生き方がある。それは、自分の隣人に対する務めを果たし、忠実に日々の仕事にいそしむことである。・・・・・

 ヨハネは、世界で最も影響力のある説教者の一人である。チャマーズが説教を褒められたとき、こう言った。「しかし、それはどんな働きをしましたか」。ヨハネが行為をつくり出すような説教をしたことは確かである。彼は神学的な問題を論じたのではなく、人々に生を訴えたのである。(バークレー