イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月18日(火):教会の任務

マルコの福音書は、本来16章8節で終わっている。われわれはただこの節が、福音書のほかの部分とどれほど違っているかを読むのである。これは福音書の最も優れた諸写本の中には見当たらない。これは後期の要約であり、マルコが書き終えるまで生きていなかったか、あるいは、いつの間にか紛失した最後の部分の書き換えである。

 最大の興味は、それが我々に与える教会の義務の描写である。この結論の部分を書いた人は、教会は、イエスによって命じられたある役割を持っていると明らかに信じていた。

 ①・・教会には説教する任務があった。それを今まで聞いたことのない人に、イエスのよきおとずれの物語を話すことは、教会の義務で会った。すなわち、それは、すべてのクリスチャンの務めはイエス・キリストの使者になることである。

 ②・・教会にはいやしの任務があった。ここには我々がたびたび見てきた事実がある。キリスト教は、人間の心と同様に、人間のからだに関心を持っている。イエスはからだに健康を、また魂に健康をもたらすことを望まれた。

 ③・・教会のちからは教会であった。われわれは、すべてを文字通りに取る必要はない。われわれはクリスチャンが毒蛇を持ち上げ、毒のある飲み物を飲んでも傷つかない、と文字通り考える必要はない。しかし、この絵画的な言葉の背後には、クリスチャンは、他の人々にはできない、また持てない、人生を上手く処理し、人生を処置しうる力で満たされているという確信がある。

 ④・・教会は一人でその任務を果たすように放置されることは決してない。常にキリストと共に、教会にあって、教会を通じて働かれる。教会の主は今なお教会の中におられ、今もなお教会の主である。そして、その福音は、クリスチャンの人生は十字架にかかり、またよみがえられた方の臨在と力の中にある生活である、というメッセージで終わっている。(マルコの福音書 終わり:W・バークレー)。