イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月5日(月):世の光

f:id:dotadotayocchan:20200823165404j:plain

 『あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけって、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい』

(マタイの福音書:5章;14節から16節)
これはクリスチャン個人にあたえられた最大の賛辞である。イエスはこの言葉の中にクリスチャンの模範を示されるが、それはまさに、「わたしは、この世にいる間は、世の光である。」と言われたイエスの本質である。イエスは弟子たちに、世の光となれ、と命じられた。それは彼らがイエスと同じものであれ、との要求なのである。・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200729171034j:plain

エスは何故、クリスチャンは世の光であれと言われたのか。

パレスチナの家は直径45センチほどの丸い窓があるだけで、内部は非常に暗かった。ランプは深皿のようなもので、油がいっぱい入っていた。その中に燈心が浮いているのである。その頃はマッチなどなかったので、ランプを一度消すと、もう一度つけるのには容易なことではなかった。平常は木の枝で作った燭台の上にランプを置いたが、外出する時などは、用心のため、ランプを燭台からおろして、土でできた枡の上に置いた。家族が帰宅するまで安全にランプがともっているためであった。ランプの光は第一に、人に見られるためであった。・・・・・

キリスト教もまた、人に見られるためのものである。

f:id:dotadotayocchan:20200620105913j:plain

「かくれた弟子というのはありえない。人に知られなければ弟子の資質を失い、弟子であればかくれていることはできない」と誰かが言った。

われわれの信仰は、すべて人にみとめられるものでなければならない。しかも、この信仰は、ただ教会の中だけで認められるものであってはならない。教会の中だけしか役に立たない信仰は、ほとんど誰の役にも立たない。われわれの信仰は、この世の日常の生活の中で認められるものでなければならない。売り場の店員に接する態度、食堂で食事を注文する態度、

使用人を取り扱う態度、自動車を運転すしたり、駐車したりするときの態度、毎日使う言葉、毎日読む読み物、これらの中に、われわれの信仰が認められなければならない。・・・・・・

クリスチャンは教会におけるのと同じく、工場、仕事場、造船所、炭鉱、教室、手術室、台所、ゴルフコース、競技場においてもクリスチャンでなければならない。・・・・・・・

エスは「あなたがたは教会の光です」とは言わず、「あなたがたは世の光です」と言われた。この世の生活において、キリスト教信仰がすべての人に明らかに示されていかなければならない。(ウイリアムバークレー

f:id:dotadotayocchan:20200602151016j:plain