イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月20日(水):瞑想者の福音書

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あたしヨハネさん大好き・・そんなに調子を合わせなくていいよ‥あら、バレちゃった


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紀元100年頃のエペソには、ヨハネを指導者とする一群の人々がいた。彼を聖人として尊び、また父として愛した。彼は百歳になっていたに違いない。この年老いた聖なる使徒が、イエスと一緒にいた頃の記憶を、死ぬ前に書き留めておいてくれればと考えた。しかし、結局彼らは、それ以上のことをした。我々は、彼らが腰をおろして、過ぎ去った日々のことを思い起こしている様を見ることができる。一人が、「イエスがどのように言われたかを覚えていらっしゃいますか」と言うと、ヨハネは「覚えている。それに、今になってイエスの言葉の真意が理解できる・・・・」と。言ったであろう。つまり、ヨハネを中心としたこのグループの人々は、ただイエスが言われたことを書き留めるだけではなかった。それならば記憶力の問題にすぎなかったであろう。しかし、彼らは、イエスが意味されたことをかきとめたのであり、それは聖霊の導きであった。ヨハネはイエスのイエスの言われた言葉のすべてについて、思いをめぐらした。・・・・

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W・M・マクレガーの説教の中の一つに、「長い間イエスを知っている者にとって、イエスはどういう方になられるか」と題するものがあるという。この題こそ第四福音書のイエスの完全な描写である。また、別に、

「目撃者のヨハネ」という本の中でこう書かれている。マルコは、イエスの生涯の事実に関するはっきりした記事のために「宣教師」に適しており、マタイは、イエスの教えに関する体系的な記事のために「教師」に適しており、ルカは、その広範囲な同情のと、万人の友としての教区の「牧師」、または「司祭」に適している。しかし、ヨハネ福音書は「瞑想者」の福音書である。ヨハネとマルコ、二つの福音書は同じ福音書ではあるがその対照において異なっている。マルコはものごとを率直に、簡潔に、事実をそのまま見たのに対して、聖ヨハネはそれらを、精細に、深遠に、また霊的に見た。ヨハネは聖マルコの記事を一生涯の瞑想の灯に照らしだしたということが出来るであろう。ワーズ・ワースは詩を、「静寂のうちに回想された感動」であると定義した。それは、第四福音書にもぴったりと当てはまる。全ての福音書の中で、ヨハネ福音書が最も偉大である理由がここにある。ヨハネ福音書の目的は、イエスが言われたことを、新聞報道のように我々に与えるだけでなく、イエスの意味されたことを与えることである。ヨハネ福音書では、キリストは復活後にも依然として語りかけておられる。ヨハネ福音書ヨハネによる福音書というよりも、聖霊による福音書である。第四福音書を書いたのは、エペソのヨハネではなくて、ヨハネを通してそれを書いたところの聖霊であった。

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いつも懇意にして頂いている、近くの教会の長老さんからお便りをいただいた。「切り絵の先生」で各地の子供園で、子供たちに切り絵を教えて回っていた。封筒の中に自作の切り絵をいつも入れて贈ってくれる。感心するほどうまく切り抜いて、カエルさんや蝶をつくって見せる。その人は、聖書通読を毎日かかすことはない、2・3年前で27回目だと言っておられた、怠け者の私は唯々、頭が下がるだけである。・・・・・

エスの言葉を理解するのに、最初から誰も十分とは言えない。最近特に思うことがある。そのお言葉がより深く理解するのには、二つのことが必要だと考え始めている。その一つは、その年齢に達しなければ、分からない言葉があるということである。今一つは、ある経験、特に苦難や悲しみや、屈辱・・・等々を味わってはじめて、「あぁ、主はこのことを話しておられたのか」と分かることがある。必ずしも苦難の時でなくても、喜びのときもそれはある。歳をとると、耳が遠くなるが、主のお声が聞こえやすくなる。沢山の経験は、そこに主のご経綸が潜んでいる・・・・

主の十字架の日から70年、かつての日々を思い起こしつつ、ヨハネの語る、主の物語は、どんな涙をもって、弟子たちに語ったのだろうか。

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