イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月29日(土):パリサイ人の現代的意味

聖書の中に、パリサイ人というのだよく出てくる。ユダヤ教の一派で、福音書の中では、度々、イエス様と衝突した。ユダヤ教という範囲で見るならば、彼らの主張には確かに一理ある。ただ、彼らは新しい教えを理解できなかっただけである。律法第一主義が、彼らの目を曇らせた。イエス様は、律法の精神を重んじ、彼らは、外見を重んじた。簡単に説明するならばそう言うことだが、長い歴史の中で、物事が形骸化することは避けられない。パリサイ派もそうした流れの中にいたことは否めない。・・・・

 さて、それらのことはしばらく横において、現代のキリスト教の様子を考えてみようと思っている。結論的にいえば、現代のキリスト教の中に、パリサイ的傾向が、芽生え始めていると感じることである。聖書を詳しく調べその論証をしたいと、以前より願っていたが、そろそろ、手をつけねばならないような気がする。

 あのパリサイ人、律法学者、サドカイ人、彼らはイエス様の時代にだけ登場しているのではない。というのが私の考えである。それは、単に2000年前の、イエス様と彼らの確執とのみとらえると、聖書に記された彼らとの論争は何の意味もなさなくなる。

 現代のキリスト教の中に、あるいは、クリスチャン個人の中に、どのような形で、パリサイ的なもの、サドカイ、律法学者的ことがらが内在しているか、じっくり検討してみる必要があるように思われる。福音書をもう一度じっくり読み直さなければならないが、重要なことのように思われる・どこまで行けるかわからない。いい勉強になるに違いない・・・・・・・《あぁ~。偽善者パリサイ人よ》との主のお言葉は、現代の我々クリスチャンにも向けられていないだろうか?・・・というのが私の危惧するところである。