イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月26日(水):いつまでも死を見ない

マルチン・ルター

『よくよく言っておく。もし人が私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう』(ヨハネ8章51節)

ここでキリストが死と、死を見る、即ち、味わう事の間に区別しておられることに注意しなければなりません。わたしたちはすべて死ななければなりません。しかし、キリスト者は、死を味わうことがない、即ち、見ないのです。彼は死を感じることも、おそれることもなく、ちょうど死なずに眠りにおちる人のように静かに安らかに死を迎えます。しかし、不信心な人は永遠に死を感じ、恐れます。それゆえ死を味わうこととは、死の力と権威とにがにがしさに関係しているのです。・・・・・・

 さてこのような違いができるのは、みことばによるのです。キリスト者は、みことばを持ち、死の中にもみことばにしっかりすがりついております。それゆえ、彼は、死を見ることがありません。彼はみことばのうちに生命を見、それゆえ、死を感じないのです。しかし、不信心な人はみことばを持ちません。それゆえ、生命を見ず、死のみを見ます。そして、死を感じます。それはにがにがしい永遠の死であるからです。

 これこそ、誰でもわたしのことばにすがるものは、たとえ、死ぬ時でも、死を見ないし、感じることはないと、キリストが約束された理由です。・・・・・・

 こうして、キリスト者がすでに永遠に死からあがなわれ、死ぬことがないということが、どれほど大きな事を意味しているかが分かります。キリスト者の死と死ぬ時の有様は、不信心な人の死の有様は外面的には似ていますが、内面的には天と地ほどの違いがあります。キリスト者にとって死は眠ることであり、死を通して生命に移っていくからです。しかし、不信心な人は生命から移りゆき、永遠に死を感じるのです。

(ルターによる日々のみことば)1525年の説教より。