イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月4日(日):良い木と腐った木

マルチン・ルター

 

『このように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ』マタイ7:14

善いわざは、信仰のない人が聖徒となり、救いに入られるように助けることはできません。反対もまた真理です。あしきわざも、人を悪として罪に定めることはできません。それをするのは不信仰だけです。不信仰が人と木を悪くし、そこで人は、悪い行いをします。それゆえ、もし私たちが清くなるか、悪くなる場合、それはわざから始まるのではなく、信仰から始まるのです。これについて賢者も次のように言っています。「ベン。シラのちえ10:12)「すべての罪は、神を離れ、神に信頼しないところから始まります」。・・・・・・・・・・

キリストもわたしわたしたちがわざから始めないようにと教えられました。「良い木をつくれば良い実がなり、悪い木をつくれば悪い実がなる」と言われました。だれでも良い実を得たいと願う者は木から始め、それをよくせよと言われるのです。それゆえ、よいわざをしたい人はわざから始めずに、わざをなす人から始めなければなりません。しかし、信仰によらなければ人はよくなることはできず、また、反対に、不信仰によらなければ悪くなることはありません。・・・・・・・・・

人の前で聖徒であるか悪人であるか悪人であるかをきめるのはわざである、という言葉はまことです。わざが、だれが聖徒であり、だれが悪人であるかを外に知らせるのです。キリストも、「このように、あんたがたはその実によって彼らを見わけるのである」と言われています・(マタイ7:20)しかしこれらのわざはすべて外側のあらわれにすぎないのです。(ルターによる日々のみことば:9月4日)鍋谷莞爾編訳)