『空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか』(マタイ6章26節)。
このようにして神は私たちの前に、他の被造物の手本を示されました。それによってわたしたちが、神に信頼して心配しないことを、彼らから学ぶためです。小鳥はわたしたちの目の前を飛び交い、わたしたちに恥ずかしい思いをさせます。私たちは帽子を脱ぎ、かれらに言わなければなりません。「信頼なる博士よ。あなたにできることがわたしにできないことを、わたしは告白しなければなりません、あなたは夜通し何の心配もなく小さな巣の中で眠っている。朝がくると、楽しく愉快に起きてくる。あなたは小さな花にとまり、神への感謝と賛美をさえずり歌う。それから食物を捜し求めて見つける。わたしはなんと恥ずかしいことだ。わたしはなんと愚か者だろう。そうするだけの十分な理性を持ちながら、同じことができないのだ』・・・・・・・・
ちいさな小鳥は何の思い煩いもなく生き、生ける聖徒のように振る舞うことができます。畑もなく、納屋もなく、金庫も倉もないのに、神を賛美し、歌い、幸福で愉快です。それは自分を世話してくれる方あることを知っているからです。その名は、「天にまします私たちの父なる神」です。・・・・・・・・
小さな小鳥がそうであるのにどうしてわたしたちは、同じようにできないのでしょうか。しかもわたしたちは、働き、土地を耕し、果実を集め、必要な時までそれを貯え、しまっておく利点を持っておるのです。それにもかかわらず、わたしたちは恥ずべき思い煩いの生活から抜けだすことができないでいるのです。
(ルターによる日々のみことば:9月8日ー鍋谷莞爾訳)