イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月1日(火):小さな雲

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『七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」』(Ⅰ列王紀18章44節)

三年間日照りが続いた後、主の言葉がエリヤに臨んだ「行ってあなたの身をアハブに示しなさい。わたしは地に雨を降らせる」と告げられた。エリヤはこの言葉に従って、サマリヤに行った。預言者とは、神の言葉を預けられた者、預けられた神の言葉を人々に伝える者、そのゆえに彼らに安住の地はない。神のふところのみが彼らの安住の地である。まことに主こそ彼らの受くべき分である。・・・・・・

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アハブは自分の前に身をあらわしたエリヤに向かって、「イスラエルを悩ます者よあなたはここにいるのですか」とののしった。しかし、エリヤはそれに答えて「わたしがイスラエルを悩ましたのではありません。あなたとあなたの父の家が悩ましたのです」と反論した。・・・・

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いつの時代にも権力者は従順な者を好み、批判する者を迫害する。神の民が地の塩、世の光としていこうとすれば迫害を恐れてはならない。最近主にある一人の兄弟から便りをもらったが、その文中に、戦前ある有力な牧師が教会の集会で国防献金を強説したので、「聖書のキリスト教は何処にありや」と問いただしたとき、「貴下の申されるようなこと、壁に耳あり、今日の発言に注意ありたし。教会のため迷惑千万」と言われたとのことが記されていた。どんなときにも神の言葉を大胆に語り、世に向かって非を非と指摘することのむつかしさを感じさせる一文である。預言者の道は決して栄光や賞賛の道ではない。・・・・・・

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その後エリヤの提言で、カルメル山におけるバァルの預言者との対決がなされたとき、「エリヤはこわれている主の祭壇を繕い」祈ったとき、神は天より火をもって彼にこたえられた。しかし、主のこたえが示されて直ちに雨が降り出したわけではない。エリヤが地にひれ伏して神が働かれるのを待った。彼は、しもべに「上っていって海の方を見なさい」と言いつけたが、しもべは「何もありません」と報告した。このことが七度に及んだと記されている。神を待つエリヤの気持ちがにじみ出ているように思われる。そして、七度目にしもべは「海から人の手ほどの雲が起っています」と知らせてきた。神が祈りにこたえられてから、現実に動き出されるまで七度見張りを要したということは、祈りについての大きな教訓である。私たちは祈れば直ちにそれが聞かれ、その恵みに与かることができると思いやすい。しかし、祈りが現実に聞かれるためには、七度、すなわち、神がよしとしたもう時が必要なのである。信じて待ち続けるところの私たちの祈りがある。この待つ間に、神は私たちの野心や、自己中心の思いを取り除いて、神のみ旨にかなうものに変えてくださるのである。・・・・・

『小さな雲が起って』という言葉の中にも、祈りの中に何か不思議なことを期待しやすい私たちへの戒めが秘められているように思う(榎本保朗師)

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今日は、信徒さんお宅を回った。意外と私たちの教会は「在家」の方が多い。いろいろな事情で、礼拝にはなかなか集えないが、時々こうして会いに行って來る。Kさんは、父親が旧米内沢町の町長を務めた人の息子さんで、お父さんは、その町の第一号のクリスチャンになった人である。開拓地に移り住んで酪農をしておられる。皆さんそれぞれにご高齢であるが、元気だった。

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今日少し手抜きよ!・・バレたか・・ちゃんとしなさい・・怖いおばさん!・