イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月15日(日):祈りの動力

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『イエスは答えて、言われた。「まことにあなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、動いて、海に入れ」と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でもあたえられます」(マタイ福音書21章21~22節)

エスは祈りには躍動する力があると言われる。この言葉は正しく理解されなければならない。もし、人がこれを間違った理解をするならば、失望するしかないが、正しく理解すれば力を受けることが出来る。この言葉を通してイエスは二つのことを示される。それは祈りによって山を動かすことができるということと、信じて祈るいのりはこたえられる、ということである。この言葉は、文字通り受け取るべきではない。イエスご自身を含めて、今日まで祈りによって、本物の山を動かした者はいない。今日まで多くの人たちが、あることが起るように、また起きないように、あるいは何かを与えられるように、誰かが死なないように、熱烈に信仰をもって祈ってきたが、その祈りはその通りにはこたえられなかった。・・・・・

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ではイエスは、祈りを通して何が与えられると言うのであろうか。

Ⅰ・・祈りは働く能力を与える。

祈りは決して安易な逃げ道ではない。祈りは責任を神に押し付けて、神がしてくれるのを待つことではない。祈りは力である。祈りとは、神に何かをするように依頼することではなく、神の力を受けて、自分ですることが出来るように願うことである。祈りは安易な道を選ぶことではなく、困難な道を進む力を受けることである。・・・・・・

もし、祈る事によって神に何かをしてもらおうと期待するだけならば、その結果、我々の無気力、怠情、無能力な者になるから、祈りは我々を毒すると言わなければならない。我々は祈りによって力を受け、その力によって自分で努力するのである。そこで、祈る者は何もしないで待つのではなく、祈った後で立ち上がって働くのである。祈って働く者は新しい力を経験し、神には全てのことが可能であること、神と共にいますならば、不可能と思われることも可能となることを知らされる。・・・・・

Ⅱ・・祈りは受け入れる能力を与え、また受け入れることによって、変えていく能力を与える。

祈りは現実からの逃避ではなく、現実を受け入れてそれを変えていくものである。新約聖書には、この点に関して二つの範例を見ることが出来る。

一つはパウロの例である。かれは、肉体にある苦痛のとげが取り除かれるように祈ったが、その願いはかなえられなかった。しかし、彼はこのとげを受け入れ、弱さの中に働く完全な力と、すべてに満ち足りる神の恵みを体験した。そして、この力と恵みの中で、彼は現実を受け入れるばかりでなく、これを神の栄光に変えることが出来た(Ⅱコリ12:1~10)

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もう一つの例は、イエスご自身である。ゲッセマネにおいて、苦い杯を取り去られるように、また苦しい立場からは救いだされるようにと願ったが、その願いはかなえられなかった。しかし、その祈りの中で、イエスはその状態を受け入れ、その状態を変えることが出来た。何故なら、十字架の苦悩は復活の栄光への道だったからである。・・・・・・

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祈りは、我々を現実から逃避させるものではない。それを克服させるものである。祈りは困難を回避させるものではなく、勇敢に困難に立ち向かう力を与えるものである。祈りを逃避と考えている間は、当惑と失望だけを経験する。しかし、祈りを勝利の道、神の活力を受ける道と考える者は、

大きな変化を経験することが出来る。(ウイリアムバークレーによる解説より引用)

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