イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月30日(月):いつもそうなのだ

f:id:dotadotayocchan:20201127131118j:plain

オーガスタス・ジョンという有名な画家は、自叙伝に次のような経験を記して、最後に短く、きびしい註釈を書き添えている。場所はスペインのバロセロナである。「わたしはマルセイユに出発しようとしてすでに荷物も送り、駅の方へ歩いて行った。すると三人のジプシーが花売り場で花を買っていた。

f:id:dotadotayocchan:20200725134129j:plain

f:id:dotadotayocchan:20200712161723j:plain

 

f:id:dotadotayocchan:20200710140212j:plain

私は、その人たちの美しさと輝くような優美さに打たれて、もう少しで汽車に乗りおくれるところであった。マルセイユについて友だちに会ってからも、私はその美しい姿が心から離れず、いたたまれなくなってもう一度戻ったが、そこにはもうジプシーはいなかった。いつもそうなのだ。」この画家は画面に描くために、絶えず美のひらめきを探していた。そしてその美は、見つけた時に描かなければ、もう二度と見出すことがないことを知っていた。機会を逃すことはしばしば人生の悲劇を引き起こす。・・

f:id:dotadotayocchan:20200531133632j:plain

一度おとずれた機会は再び戻ってこない。これは人生の事実である。パレスナの人々にとっても、福音を受け入れる機会がおとずれた。しかし、その好機は、ひとたび逃せば再び戻ってこない。諺に、「戻ってこないものが三つある。それは口から出た言葉と、放った矢と、失った機会である」

というのがある。これは我々がよく経験することである。・・・・・

     ☆       ☆       ☆

エスは弟子たちを宣教のわざに遣わすとき、このように言われた。

『その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしいなら、その平安はその家に来るし、もし、ふさわしい家でないないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます』(マタイ:10章;12~13節)

f:id:dotadotayocchan:20200423173438j:plain

私は、これまで自分の、独断と偏見、無知と無精、怠慢と堕情・・・・

訪れた平安の子をどれほど、むなしく去らせて来たであろうか。

『いつもそうなのだ』。榎本先生がどこかでこんなことを書いておられた。ある信徒さんが訪ねてこられ、昼時に帰ろうとしたのを、「お昼を一緒に食べて行きなさい」と誘ったのだが、その信徒さんはそれを「固辞」

して帰ってしまった。牧師宅の昼飯なんぞたいした御馳走があるわけではない。榎本先生は妙に寂しかったと、書いている。私も牧師のはしくれなので、そんな気持ちがよくわかる。奇妙な遠慮は人と人との交わりを妨げる。私と食事をしてもたいして益にはならないだろうが、私なら榎本先生の下さる食事なら、けして断らない。私のうちには、人の善意を快く受けない者は、けして人に善意を与えないという、ゆるがぬ思いがある。・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200415173626j:plain

『いつもそうなのだ』私の知り合いの人が、不景気の時、リストラにあった。会社は、何人かを解雇しなければならないと、従業員に告げた。彼は自ら志願して会社を辞めた。さしたる成算があったわけではない。朝の早い新聞配達のアルバイトをして糊口をつないだ。そして50歳の若さで召された。彼は、いつもそうなのだった。名もなき男の小さな、生涯であったが、主イエスはこの男を忘れはしないだろう・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200414213802j:plain

竹内御夫妻から、また金田先生から、クリスマス用の切り絵が贈られてきた。クリスマスの飾り付けが一つ増えた。竹内先生のお手紙はいずれ、ご紹介しよう。川村先生の様子が、厳しいようで子供たちが、心配している。うちみのさんからメールがあった。さち先生にはもう少し待っていただこう・・・しかし、ちえ子が言っている。「何をぐずぐずしてるんだ、早く来い」とさちが待ちくたびれて怒っているぞと。私はただ、ただ、う~う~う~‥うなるしかない・・・

f:id:dotadotayocchan:20200905180604j:plain

みなさん心配事が多いのね。・・いつもそうなのだ・・で、今日は小話はないの・・・今日は全部が小話だ・・うるさいネーちゃんだな・・