イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月9日(火):福音のはじめ

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「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」マルコの福音書はこの書き出しで、「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える」というマラキ書の3章1節にに出てくる言葉の引用をもって始まる。イザヤの書と記されているが、実際はマラキ書の言葉である。このマラキ書3章は、世界の終わりについて書かれたものである。この世は今のままで永遠に進んで行くものではなく、神によって終わる時があり、そして新天新地が開かれる時があるというのが、聖書のこの世に対する見方である。これがマルコの冒頭に引用されているところに、終わりから始まる福音の真理がある。

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うっかりすると、私たちはこの世のことに熱心になるあまり、自分の力でこの世を支え、地球でさえ動かせるように思うことがある。しかし、実際は神が世界を支配しておられるのであり、また、歴史をも支配しておられるのである。もちろん、神がすべてをしておられるのだから、私たちはもう何もしなくていいということではない。私たちは、この神こそがすべてを支配しておられるということを、未だ知らない人々に向かって語っていく責任があり、また神の御心がこの地上において成就するために、主の示された愛と正義、そして真理の実現のために働いていくのである。

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しかしそれはも最終的目的ではなく、きたるべき世の終わりまでの暫定的なことなのである。どんな素晴らしい理念を語られても、実際の現実の世界はいろいろ問題を抱え、間違いもあり、不徹底である。これは人間の世界の真相なのだ、人間がどんなに一生懸命知恵を尽くし、力を尽くしたとしても、完全無欠の理想世界のようなものは出来ない。ただ、それは今より少し良い結果が得られるのではないかということに過ぎないのだ、私たちの為すことは、常に本当の最終のものではなく、本当の最後への一つの過程であることを忘れてはならない。最後には、必ず神の裁きがなされるのである。私たちはそこに立っている信仰であることを、思い起こさなければならない。福音というものは、必ず世が終り、新しい世界が來るとい信仰の上に立つものであって、それがくじけてしまうなら、一体福音とは何か、ということになってしまう。だから「福音のはじめ」として、最初にマラキ書が引用されていることは、重要な意味があるのだ。(榎本保朗一日1章)より。

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本来この一日一章は、字数にして倍くらいのものを、ご子息の恵先生が、編集を加えて、半分くらいに短縮して、あらためて出版したものである。アシュラム用として、朝のデボーションに用いるのは、確かに、この方が便利である。私も今年からこれを利用しているが、イマイチ気が乗らないのはどうしたことだろうと、考えあぐねている。

3年ほど前、日光オリーブの里で、アシュラムの集会があって、信徒さん達と出かけてきた。榎本恵先生と姉妹たちが来ておられた。父親である榎本保朗師のアシュラムの方式をきちんと継承しておられ、実り豊かな集会であった。アシュラムセンターは如何せん琵琶湖のほとりである。中々そこまでは行くのはむつかしい。行きたいとは願っている。そこへ行って、イエス様の香りにふれるように、「恩師」保朗師の香りにふれて見たい。体力的にいってここ1~2年が勝負だろう。アシュラム運動はもっと日本の教会で広められていければいいのだが・・・・以前そういう機運はあったが、結局いつの間にか尻つぼみになってしまったのが残念でならない。・・・・・・

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