
昨日「あとの者が先になり」というイエスの言葉の解説を、バークレーの書物から引用して書いた。そして、今朝、朝のデボウーションで、開いた箇所が、奇しくも同じみ言葉だった。朝毎に聖書を読み、今年は1月12日より、榎本保朗師の新約の方を読み始めていたのだが、マタイ20章のイエスの譬え話のところだった。読みながら、同じ聖書の個所でも人によって、それぞれ受け止め方が違いものだなと、改めて感じた。それで、榎本先生の書かれたものを、要約だが載せて見ることにした。・・・・・

・・・・・・あとの者は先になり・・・・・・
『16節までは葡萄園の譬えである。これを読んでいて、何か割り切れないもの、一つの矛盾を感じるのではないか。それは、最後の者も一デナリを受けたということではなく、最後の者から支払いがなされたということである。同じ賃金を払うのであれば、朝早くから来て働いた人から払うのが順序ではないかと思う。あとから来た人から支払ったのは何故なのか、そのことを考えるとき、この話の示しているものを知ることができる。・・

私たちはいつも、自分が最後に来た者であることを忘れやすい。自分がそういう小さな者であって、いちばん後に来た者なのに、大きい者や、一番はじめに来た者のように思いやすいのだ。この小さい者を愛して下さる神がおられることは大きな喜びである。神の前には誰よりも小さい者であると思う者が、一番大きな恵みに与ることができるのだから。・・・・・
自分のみじめさ、小ささ、弱さというものを神の前にきづかず、自分は正しい者、立派な者であるという風にしか思えない人は、福音の喜びを味わうことが出来ないのではないか。天国においては、自分が小さい者、弱い者であることを知る事こそが何よりも大事である。そのように思えるとき、この譬えは矛盾ではなく喜びとして、福音として伝わてくるのだ。』

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イエスの譬え話は、マタイ、マルコ、ルカ、の各福音において、36の話が記録されている。実によくイエスは、いろいろなことを譬えで話された。その話は、聖書を読む者にとってはもちろんだが、聞き手ににとっても、フム、フム、と納得し得るものであった。内容は具体的で、たとえ当時の女、子供でも分かるものが多かったようである。ある意味で、それは小さな童話にさえ聞き取れることがある。ただ、しかし、その意味するところは、反面、鋭い真理が含まれていることも見逃せない・・・・・

もう一つ、譬え話の中に、非常に重要な事柄を読み説くことができる。それは誰が指摘していたのかは、随分昔に読んだ本から、学んだ事であるが。我々は、福音書の中からは、イエス様の33年の生涯のほんの少ししか知らない。誕生にかかわる事。12歳での少年イエス。公生涯での3年間。
では、これ以外の、「時」にイエスは何をしておられたのか。福音書にはその記録がない。しかし、記録されていないイエスの姿を発見した人がいた。それが誰であったか、思い出せない。その人はその著書の中で、こう書いていた「イエスの話された譬え話の中にイエスがいる」と。・・・・

目からウロコとはまさにこの事だろうと思った。イエスの語られた譬え話を注意深く読んでいくと、そこに佇んでおられるイエスのお姿と、御目のあることに気付かされるのです。葡萄畑に出かける労働者の列を、取り残されていた、貧しく不器用な男を、また、銀貨を一枚失くした女は、ひょっとしたら、イエスの隣のおばさんだったかも知れない、あるいは一緒に探してあげたのかも知れない。想像の翼を広げると、さまざまな譬え話の傍にイエスが見え隠れしてきそうな気がします。

今日は、少ない人数の礼拝になった。高沢先生ご夫妻は、所用、美さんは、介護福祉士の国家試験で、秋田へ、年に一度の試験なので、是非受かってほしい。柳ご夫妻は、吹雪で車を動かせないと☎があった。残念と思っていたら、晴れ間が見えたので、走って来たと10分遅れで着いた。いつもいつも励まされる。・・・・

今年の恩寵教会の主題聖句は:あなたの宝のあるところに、あなたの心もある・・・自分にとって何が一番大切なことなのか、それを祈り、考えていければいいのだが。
