「マタイ福音書19章1節~16節」・・『このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです』
このたとえばなしはつくり話のように聞こえるが、事実はその反対で、このようなことはパレスチナではある時期にはよくあったことである。パレスチナでは、葡萄が熟すのが九月で、その後すぐに雨期がきた。雨が降る前に葡萄を取り入れないと、葡萄は腐ってしまう。そこで一刻を争う収穫期には人手が必要で、一日に一時間しか働けない人でも歓迎されたのである。市場に立っている人は怠けて時間を浪費しているわけではない。5時までそこにいたとあるのは、どんなに真剣に真剣に仕事を求めていたかをあらわしている。
この人たちは日雇い労働者で、労働者の中でも一番低い階級に属していた。生活は極めて不安定であった。奴隷や使用人ならば、
主人がおり普通の場合飢える心配はない。しかし、日雇い労働者の場合、それとは事情が違っていた。彼らの賃金は安く、貯金する余裕などない。一日仕事にありつけなければ、家にいる子供に食べさせることの出来ない状態であった。こういう人たちにとって、一日の失業は悲劇であった。
ある人はこの譬え話を、最も偉大な、また最も光輝ある譬え話の一つ。と呼んでいる。この話は最初語られたとき、聞くものにある程度限定された教訓を与えたが、ここには、キリスト教信仰の中心ともいうべき真理が含まれている。そこでまず、限定された意味を見ていくと。これは弟子たちへの警告であるということである。イエスは多分弟子たちにこう語られたのではないだろうか。『あなた方は非常に早い時期に、最初から、キリスト教会とその交わりの中に入る特権を与えられた。しかし、後になって、他の人たちがこの交わりに入ってくる。あなた方はそのとき、最初からいた者としての特別な名誉や地位を得ようと思ってはならない。すべての人は、交わりに入る時期の早晩にかかわらず、神の前には等しく大切なものである』・・・・・
長い間教会にいる間に、教会を自分のもののように思い、何でも自分の思い通りにしようとする人たちがいるが、こういう人たちは、教会に新しい人たちが加わったり、新しい年代層の人たちが自分と違った計画や方法を持ち出すと腹を立てる。キリストの教会では、年長者が必ずしも名誉ある者ではない。これはまた、ユダヤ的思考に対する警告でもある。ユダヤ人は、自分たちが神から選ばれた民であることを絶えず意識していた。そこで彼らは異邦人を軽蔑し、憎悪し、異邦人の滅亡を願っていた。異邦人が教会に加わる場合には、劣等人種として取り扱った。「神の前には特別に敬愛を受けた国民は存在しない」と誰かが言ったように、キリスト教には
「支配民族」というものはない。・・・・
そしてまた、この譬え話には神の慰めがある。神の国に早く入る人も遅れて入る人もいる。感動しやすい青年期、分別盛りの壮年期、また日かげの傾く老年期に信仰に入る者もいる。ラビの言葉にもある「ある者は一時間で神の国に入り、ある者は一生かかってやっと入る」と。黙示録に記されている聖なる都には、十二の門がある。東の門は日の出の方角に向いていて、ここからは楽しい人生の暁に入ってくる人がいる。また、西の門は日没の方向に向いている。ここからは老人が入ってくる。その入る時は異なっても、皆、神の前に尊い人たちである。
今日は何となく気分がすぐれない。さしたる原因もないのだが、憂鬱な空気が漂っている。犬のまるは敏感に察知して、朝から私のそばを離れない。いつもはソファにふんぞりかえっているのだが、足元に控えている。