イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月29日(金):サグラダ・ファミリア

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サグラダ・フアミリア 聖家族教会

 サグラダ・ファミリアは、日本においては「聖家族教会」と呼ばれている。スペインカタルーニャ出身の建築家、アントニ・ガゥデイ(1852年~1926年)によって建設が始められた。・・・・・・・

彼は、父ランセスク、母クルネットの5人目の子として生まれたが、次女と長男はそれぞれ幼くして亡くなったため、長女ローザ、次男フランセスクとの三人姉弟として成長した。ガウディ家の先祖は17世紀初頭にフランスからやって来たが、父は銅板加工で鍋や釜を作る銅細工師であり「銅細工師の家」として知られていた。母方もまた銅細工職人の家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地となったと考えていた。・・・・・・

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幼年時代・・ガウディは6歳になるまでにリウマチにかかり、痛みもひどい時はロバに乗って移動することもあった。病弱だったために、他の子どもたちと同じように遊ぶことは難しかったが、この頃にはクリスマスの飾りのために紙細工で風変わりな家をつくったという逸話がある。また、授業で鳥の翼は飛ぶためにあると説明した教師に対し、鶏は翼を走るために使っていると反論したという話は、幼いガウディが自ら周囲にある物の造形をよく観察していたことを示すエピソードとして知られている。

学生時代・・1873年~1877年の間、彼はバルセロナで建築を学んだ。学校では、歴史、経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、友人から建築辞典を借りて熱心に読んでいたとも伝えられている。また、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナの公園の装飾や修道院の装飾にもかかわった。・・・・・・

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建築家ガウディ・・彼の処女作は未完のものも含めると1867年のコロニアだと言われている。この仕事でマタロ協同組合の教師ペピタと知り合った。これが初恋であった。しかし、成婚に至らず、その後一生独身であった。1878年建築士の資格を取得している。当時のバルセロナ建築学校の

校長はガウディについて「彼は狂人なのか天才なのかわからない、時が明らかにするだろう」と語ったと伝えられている。同年、ガウディはパリ万国博覧会に出展する手袋店のためにショーケースをデザインした。この作品を見て、その才能を見初めたのが、繊維会社を経営する富豪エウゼビ・グエイであった。グエイはその後40年に渡ってガウディのパトロンとして支え続けた。その間、多くの仕事を発注し、1883年には、サグラダ・フアミリアの専任建築家に推薦した。・・・・・

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後半生・・ガウディは後半生は熱心なカトリック教徒として過ごした。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・フアミリァの建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死により仕事が進捗せず、さらに、40年も支え続けてくれたパトロンのグエイが死去した。

この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり特に写真を撮られるのを極端に嫌うようになり、ひたすら、サグラダ・フアミリァの作業に集中するようになった。・・・・・

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死・・1926年6月7日、彼はミサに向かう途中、この日眼鏡を家に置き忘れ段差につまずいて転倒、そこに通った路面電車に轢かれた。晩年は身なりに気を使わなかったため、浮浪者と間違われて手当が遅れ、事故の三日目に73歳で息を引き取った。遺体は、サグラダ・フアミリァに埋葬されている。終生独身であった。・・・・・・・

完成間近になったサグラダ・フアミリァ・・・この「聖家族教会」の完成までには、およそ300年かかるだろうとみられていた。しかし、技術革新によって、1883年に始められた建設は、2026年の完成が見込まれており、最終段階にある。もとよりガウディ亡きあと、幾人もの建築家によってこの偉業は受け継がれて来ているのであるが、ここで特筆しなければならないのは、日本人の外尾悦郎氏についてである。彼は、スペイン内乱によって多くのガウディが遺した資料が失われる中で、ガウディの目指したものを追求していった。最も重要な塔の先端の内部の装飾を、委ねられている。彼は、その装飾を見る人々が、「イエスの愛」が分かるように作りたいと語っているという。元々、ガウディは、「聖家族教会」と言われる教会をつくることを目指していたのであり、誰でも、貧しい人々も自由に出入りすることができる開かれた教会を作りたかったのであろう。・・・

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      ☆       ☆        ☆

この稿は、3年ほど前に書いたものを改めて書き直したものである。その原本は失われて、随分、捜したが見当たらない。今回の書き直したものは、かなり不備があり、「ウイキペデア」を焼き直しただけであって、あまり快くないし、内心忸怩(じくじ)たる思いである。・・・・・

以前の資料には、彼が寝ていたベッドの写真があったが、それは、本当に浮浪者が休むような粗末なベッドだった。

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今日は一日何事もなく過ぎた日だった。一日雨模様、寒が過ぎて雨模様とは、温暖化のなせることか。2026年、待ちどおしいけど、それまでこちらの身が持つかな、まぁ、せいぜい身を慎むことにしよう・・・・どうせスペインまでは行けないが、マスコミがきっと報道するだろう。それが見たい。

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ねぇ、ねぇ、スペイン人って、途方もないことを考えるのネ・・うん、ミユがスペイン大好きなんだって・・そう~