イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月28日(木):シッタールタ 釈迦

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ノーベル文学賞を受賞したドイツの小説家、ヘルマン・ヘッセの小説に、

「シッタールタ」というのがある。釈迦が悟りを得るまでの生涯を描いたものだが、それは西洋人の見た釈迦像であるが、美しい物語である。

釈迦は、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、歴史上実在した人物で、仏教の開祖である。シッタールタは王族の子として生まれたが。王子

としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳の頃に出家した。その出家を決意させた伝説的逸話が残っている。・・・・・

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四門出遊の故事と言われるもので、ある時、釈迦がカピラブァストウの東門から出るとき、老人に会い、南門より出るとき病人に会い、西門から出るとき、死者に会い、この身には、老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになったという』

以来6年間、難行苦行を重ねて見たものの無意味であることを悟り、苦行を放棄した。釈迦には父が護衛代わりにつけていた5人の沙門がいたが彼が苦行を放棄するとともに彼らは去っていった。35歳のシッタールタは6年の苦行でやつれた体を癒し、村娘スジャータからの布施を受け、体力を回復した彼はピッパラ樹の下に座し、7日間、瞑想に入り、悟りを得た。

彼はその悟りを伝えるべく、布教の旅にでるのであるが、去って行った5人の沙門も釈迦の説法を聞いて、再び行動を共にすることになった。

こうした釈迦の出家から、宣教活動を、マルコ・ポーロが後年こう書き記している。『彼(釈迦)の生き方は清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていたであろう。あるいはもし、彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼は我が主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となっていたに違いないであろう』と。・・・・・・

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その釈迦はマルコ・ポーロの時代より一世紀も前に、ローマ教会から聖ショサファットという名前で、聖人として加えられていた。マルコはそのことを知っていなかっただけである。・・・・・・・

いうなればシッタールタはキリスト教会にとって、聖人としてその名をとどめている聖者である。ということになるのだが、合点のいかない人々も多いと思う。その原因の大きな要因は、釈迦の教えが、中国に渡った時点で変質してしまったからである。日本への仏教の渡来は、聖徳太子の時代にさかのぼるが、その頃はまだ釈迦の香りがのこっていたようである。しかるに、今の仏教界は、ただの葬儀屋に過ぎない。それもベラボーに金の要る葬儀屋である。何故あれだけの金を要求するのか、・・・・

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小話・・先ごろインドから、シッタールタという人が、日本の仏教界を訪ねて来た。何やら偉いお人らしいとのうわさで、日本の大僧正様たちが、接待にあたった。日本の誇るキンピカの神社仏閣をつぶさに案内して、いろいろお釈迦様の言葉を語ったらしい。そこで、シッタールタが、つぶやいた。

『俺、そんなこと言ってないよ・・・・・』

私たちの聖典は、二千年の歳月を経ても、変わることがなかった。二千年前にパウロの手紙、イエスの福音は、当時の人が読んだように、私たちも同じ思いで読んでいる。これは奇跡という他ない。今の仏教界は、釈迦の教えをすっかり忘れ去っているかのようである。本来は、キリスト教会の聖人であるのに、・・・

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