福音書の中に「天の御国は」と言う言葉が、30回ほど出てきます。その一部だけ、マタイの福音書からみて見ますと。
マタイ13章。
24節・・天の御国はこういう人にたとえられます。
31節・・天の御国はからし種のようなものです。
33節・・天の御国はパンだねのようなものです。
44節・・天の御国は畑に隠された宝のようなものです。
45節・・天の御国はよい真珠をさがしている商人
47節・・天の御国は地引網のようなもの
52節・・天の御国の弟子となった学者
その他の個所も概ねそうですが、イエスは天の御国について語る時、常に譬えをもって語られていることがわかります。これは決して偶然ではありません。天の御国がどのようであるのか、譬え以外に語る方法がなかったのです。天の御国は、われわれの理解をはるかに超えていて、われわれの言語で言い表すことの出来ない世界を、イエスは、譬えをもって表現したものであろうと思います。私たちも、時々、会話の最中に、譬えを持ち出すことがあります。直接言葉で説明しきれないとき、表現しきれない自分の思いを、しばしば、「例えばですね・・・」などと話をつないでいく経験は、多分、誰でも持っている事だろうと思います。イエスもこう言われました【あなた方は、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう】(ヨハネ3章12)・・・・・・・
【天の御国は】とイエスが語り始めても、「さて、それはどんなところだ?」と期待して読んでいっても 、御国の街並みや、住人たちの顔だち、住まいなど全く示されていません。どうやら話をはぐらかされているような、気持ちにされるのですが。「天の御国は、よい真珠を捜している商人のようなものです」と言われても、はなはだ納得しかねるのです。このどことなく詐欺師的な言葉の裏に、偉大な真理が隠されているようなのです。天の御国は、世にふたっとない真珠です。商人はそれが欲しくてたまらないのです。彼はすべてをなげうって、美しい真珠を手に入れようとします。その姿が、天の御国を表しています。イエスはこう言われているのではないだろうか。天の御国がどのようなものであるか、すべてわたしにゆだねよと、主は言われているのかな?・
八木重吉がその詩の一行に。
【キリストがうそをいうはずがない】と書いてある。まず我を信ぜよ。そこからすべてをはじめよ・・・・と。
春の嵐も一応収まった。ただ雪解けが進まない。私が新潟直江津にいた頃、上越市は有数の豪雪地であったが。雪解けの速さには驚いた。春が近づくとあっと言う間に、雪が消えるのである。秋田は雪が、積雪が無くなるのに相当の時間がかかる。