イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月19日(金):主よ、主よ。

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【主よ、主よ。という者がみな天の御国に入るのではない】(マタイ:7章21節)

エスは言われる。虚偽の心でイエスの名を利用する人たちは、いつか、必ず裁かれなければならない。そのときには、その本心が暴かれ、神のみ前から追放される、と。

この箇所の中に、二つの不滅の真理が示されている。人間の誠意を示す道はただ一つ、

それは実行することである。美しい言葉は立派な行いの代わりにはならない。愛を示す唯一の道は服従である。人を愛すると言いながらその人を悲しませることをしたのでは、愛していることにならない。・・・・・・・

私たちが小さい時に、「お母さん大好き」と言うと母親は笑いながら、それでも真面目に、「そうだったら、もう少し態度で示してくれたらいいのに」と言うような経験をしたことがないだろうか。我々は口先だけで神への信仰を告白しながら、生活でそれを否定していることがあまりにも多いのではなかろうか。信仰の信条を述べるのは容易である。しかし、クリスチャンとして生活することはむつかしい。行いのない信仰は矛盾があり、服従のない愛はいつわりである。・・・・・・・・

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この箇所の背後には審判の思想がある。ここに一貫して流れる思想は、いつか、必ず裁きの日が来る。ということである。人は長い間外見をつくろい、偽装することができたとしても、いつか偽装は見破られ、偽装ははぎとられる時が必ず来る。我々は、言葉で人を欺くことが出来ても、神を欺くことはできない。【あなたは、遠くからわが思いをわきまえられます】(詩篇139:2)

【主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか】・・・・・・

しかし、そのとき、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れていけ』

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今日、はてなブログの本部の方から、ブログをはじめて一年になりますと通知をいただいた。去年の2月19日に始めた。2月26日以後は、一日も欠かさず、記事を載せてきた。この間、山あり谷ありという状況ではあったが、おおよそ、400くらいの記事を書いた。どこかの運動選手の言葉ではないが、正直、自分をほめてみたい。今後はどうするか思案中である。少しマンネリ化してきたせいもあるのか、この一か月は、極端に読者が減った。身から出た錆と言われれば、返す言葉もない。深く自省しなければならない。だが書き続けることは止めない。それが主から頂いたことだから、と。信じている。

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