イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月26日(金):偽りの口実

 

『わたしに向かって、「主よ、主よ」という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父のみこころを行う者が入るのです。その日には大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」しかし、その時、私はかれらにこう宣告します。「わたしはあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れていけ。」(マタイ:7:2ー3)。

この箇所には驚くべきことが書かれている。イエスは、偽預言者が、不思議な事、目をみはるようなことを、言ったりすることができることを率直に認めている。ここで我々は、古代社会の様子を知らなければならない。古代社会では奇跡は珍しい事ではなかった。それは、昔の人たちの病気に対する考え方によるのである。昔の人たちは、病気は皆悪魔が悪辣な力を発揮して、人の体のどこかに入り込む時病気が起こり、悪霊を追放する追放する時病気は治る、と信じていた。従って、ほとんどの病気は今日でいう心理的なものである。治療もまた心理的なものであった。もし誰かに悪霊に魅入られてその虜になっていると信じ込ませることが出来れば、その人は必ず病気になった。また悪霊の虜から解放されたと信じ込ませると、その人は癒されるのである。昔の人は悪霊にとりつかれると信じて病気になり、また、悪霊が追い払われたと信じて病気が治ってのである。・・・・・

新約聖書の中にさえユダヤの魔術師のことが書かれている。この人たちは自分が習得した魔術の他に、イエスの名を使って悪霊を追い出している(使徒19:13)。多くの藪医者たちは口先だけでイエスを褒め、その名を使って、悪魔にとりつかれた人たちに治療に著しい効果をあげている。・・・・・

エスは言われる。虚偽の心でイエスの名を利用するひとたちは、いつか、必ず裁かれなければならない。その時には、その本心が暴かれて、神のみ前から追放される。この箇所に2つの不滅の真理が示されている。人間の誠意を示す道は一つ、それは実行することである。美しい言葉は立派な行いの代わりにはならない。愛を示す唯一の道は服従である。人を愛すると言いながらその人を悲しませることをしたのでは、愛していることにならない。信仰の信条をのべるのは容易であるが、クリスチャンとして生活することはむつかしい。行いのない信仰は矛盾があり、服従のない愛は偽りである。・・・

この箇所の背後には審判の思想ある。ここに一貫して流れる思想は、何時か、必ず裁きの日が来る、と言うことである。人は長い間外見を繕うことはできても、何時かは見破られ、偽装ははぎとられる時が必ず来る。我々は、言葉で人を欺くことはできても神を欺くことはできない。『あなたは、遠くからわが思いをわきまえられます』詩篇139:2.誰も、われわれの心を見る神を最後まで騙すことはできない。