イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月25日(木):世の光り

『あなたがたは、世界の光りです。山の上にある町は隠れる事が出来ません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人人々を全部照らします』(マタイ:5章14~15)

これはクリスチャン個人へ与えられた最大の賛辞である。イエスはこの言葉の中にクリスチャンの模範を示されるが、それがまさに、「わたしは、この世にいる間は、世の光りである」(ヨハネ9:5)と言われたイエスの本質でもある。イエスは弟子たちに、世の光りになれと命じられた。それは彼らが、イエスと同じものであれ、との要求なのである。イエスの言葉は、初めてこれを聞いたユダヤ人にもそれほど抵抗はなかったであろう。ユダヤ人自身も、エルサレムを「異邦人の光り」呼んでおり、有名なラビを、しばしば、「イスラエルの光り」と称していたからである。イエスの言われた意味を理解するためには、ユダヤ人がこの言葉をどのように使っていたかを知る必要がある。・・・ユダヤ人は、あかりをは自分でつけるのでないことをはっきり知っていた。エルサレムは「異邦人の光り」であったが、「神がイスラエルのあかりをともされた」のである。イスラエル民族や預言者たちの放った光は、反射する光であった。クリスチャンも同様である。イエスは、われわれが自分から光を発するのではなく、、イエスの光りを反射するように命じられる。クリスチャンの輝きは、イエス・キリストによってこころの中にともされる光である。

(1):光は人に見られる。パレスチナの家は直径45センチくらいの丸い窓があるだけで、内部は非常に暗かった。ランプは深皿のようなもので、脂が一杯入った中に燈心が浮いていた。その頃はマッチがなかったので、ランプを消すと、再度点火するのがむつかしかったので常に、燈心は消さずにおいた。外出するときはその灯心を絞って、用心のために枡の上に置いた。帰宅するまで安全にランプが灯っているためである。ランプの光は第一に人に見られるためであった。キリスト教もまた、人に見られるためのものである。「かくれた弟子と言うのはありえない。人に知られなければ弟子資格を失い、弟子であればかくれていることはできない」。我々の信仰は、全ての人にみとめられるものでなければならない。様々な日常の事柄においてそうである。あなたがたは「教会の光り」であるとはイエスは言われなかった、「あなたがたは世の光り」であると言われたのである。

(2):光は人を導く。

河口にライトがついていて、船が無事に河に入って来られるようにしてる、街灯のない町は歩きにくい。光は道を照らす。クリスチャンは他の人のために、道を明らかに示さねばならない。模範を示さなければならないのである。誰かが不正なことを行おうとしている時、誰も反対しなければそのまま不正が行われてしまうであろう。「わたしはそんな仲間に入らない」と言えば、周りもそう言う人が出て来るだろう。クリスチャンの務めははっきりとした態度を示すことである。

(3):光は警告する。

前方に危険がある時、光は、停止するように警告する。クリスチャンの務めは、同胞に必要な警告を与えることである。忠告するのは困難である。しかもその忠告が、人の害にならず、益になるようにするには一層困難である、「もし、あなたが、こうなる前に忠告して下さったら、今のようにならなかったでしょうに・・・」ということがある。

『昔、聞いた逸話だが、ある父親が、刑務所にいる息子に面会にいった際、父親に向き合っていた息子が、両手を後ろで縛られていたので、父親に噛みついたという、そして言った「お前がわしを、ちゃんと育てなかったから、こうなったんだ!!!」。・・・