イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月9日(日):道 真理 いのち 

わたしの行く道はあなたがたも知っています。トマスはイエスに言った。「主よどこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」ヨハネ14:4~6.

繰り返し、繰り返しイエスはご自分がどこへ行こうとしているのかを弟子たちに語った。しかし、弟子たちはついに理解しなかった。「今しばらくの間、あなた方と一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになった方のみもとに行く」とイエスは語った。イエスはイエスを遣わした方のみもとに行こうとしているのであり、父とイエスは一つであると語った。しかし、でしたちは、何が行われようとしているか理解できなかった。イエスが通ろうとしている道、その道のために十字架があるという事など、さらに理解できなかった。このとき、弟子たちは困惑し、理解できなかった。分からないものを分かったと言わない者が彼らの中に一人いた。それはトマスであった。トマスは余りにも正直であり、熱心であったので、曖昧な信仰深げな表現で満足するような人間ではなかった。トマスには確信が必要だった。だからとますは彼が疑問に思っていること、そして自分にはどうしても理解できないのだという事を語った。イエスの語られた言葉の中で最も偉大なものが疑う者によって引き出されたという事は素晴らしいことである。なぜなら、求めるものは最後には見いだすという驚くべき、そして幸いな真理だからである。

 「私は道であり、真理であり、命である」とイエスはトマスに語った。これは私たちにとって偉大な言葉である。しかし、これを聞いたユダヤ人には、」さらに重大な言葉であった。ここでイエスは、ユダヤの三つの基本的な概念を取りあげている。そして三つの概念の完全な成就と表現が自分の中にあると大胆に主張したのである。・・・・

 ユダヤ人は人が歩むべき道、神の道についていろいろ語っていた。神はモーセに「あなたは左にも右にも曲がってはならない、あなたは、あなたの神、主があなたに命じた道を歩まなければならない(申命5:32)と語っている。「これは道だ、これに歩め」(イザヤ30:21)・

 イエスは何を言わんとしたのであろう。わたしたちが知らない町へ行って、案内を求めるとしよう。聞かれた人は親切に教えてくれるかも知れない「そこの角を右に曲がって、通りに出て左に曲がり四番目の路地をまっすぐに行ってさらに・・・・」などと説明されても迷わずに目的地にたどりつけるか、その確率は低いであろう。しかし、道を尋ねられた人が「わたしがご案内しましょうと」と言ってくれるならば、その人が私たちにとって道に迷うこともありません。これがイエスが私たちにして下さったことなのである。イエスは単に私たちに助言や指示や忠告を与えるのではない。イエス自ら私たちを導き、私たちと共に歩み、そして私たちを個人的に日ごとに強め、導き指示される。イエスは道について語りはしない。イエス自身が道である。