イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月9日(日):道 真理 いのち (2)

エスはまた、「わたしは真理」であると語られた。詩篇の記者は次のように語っている「あなたの道をわたしにし教えてください。私はあなたの真理に歩みます」(詩86:11)「私は真実の道を選びました」(詩26:3)道徳的真理について非常に大切なことが一つある。学究的、科学的真理を教える人の人格は、彼の語ることに影響を及ぼさない。地理や天文学や、ラテン語の文法の講義は実際のところ、講義する者の人格に影響されることはない。しかし、もしある人が道徳的な真理を教えようとするならば、彼の人格は絶大な相違をもたらす。純潔の必要を説く姦淫の男、寛大であることの必要を説く貪欲な者、謙譲の美徳を説く横柄な者、平穏の美を説く癇癪もち、愛の美しさを説く憤慨屋は全くすべてナンセンスである。・・・・・・・・

 道徳的真理は、言葉のみによって教えることはできない。それは実例によって教えられなければならない。まさにそこが最高の人間の教師が敗れるところである。自分の教える真理を具現化した教師はいない。多くの人が「私はあなたに教えた」という事ができる。しかし、イエスのみが「わたしは真理である」という事ができる。イエスが素晴らしいのは、道徳性的完全性の極みが彼によって言い表されているからである。

  命について:

エスはまた「わたしはいのちである」と語った。箴言の記者は次のように記してい教訓を語る。「戒めはともしびである。教えは光である。教訓の懲らしめは命の道である」86:23)結局のところ人間が常に求めているものは命である。人間は知識をそれ自身のために求めるのではない。人々が求めているものは、人生を価値あるものにするためである。ある小説家は、目下恋愛中の一人の人物に次のように語らせている。「わたしはあなたを通して人生を見るまでは、人生がどんなものか、全く知りませんでした」。愛は命をもたらす。それをイエスがなされたのである。イエスと共なる人生は価値ある人生である。それは真実な人生である。これらすべてを与える道が一つある。「誰もわたしによらないでは父のみもとに行くことができない」とイエスは語った。イエスのみが神に至る道である。イエスにおいてのみ、神がいかなる方であるかを知る。イエスのみが人間に神を示し得る。そして、人間を恐れも恥もなく、神の臨在のもとに導いて下さるのである。(W・バークレー